2017年11月07日

関西の写真(史)-4-

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 関西の写真史といって、関西の地域的な限定をして、そのヒエラルキー的にみれば、大阪があり兵庫(神戸)があり京都となります。奈良、和歌山、滋賀はといえば三都市の周辺地域、たとえば滋賀は京都に、奈良は大阪に、和歌山も大阪に、というふうにいくつかの拠点がひとつにまとまっていくという図式です。頂点には大阪が立つことになると思います。写真倶楽部が大阪を中心に始まってきて、そこに集まるメンバーの生活地が京都であったり芦屋や神戸であったりで、それぞれメンバーの生活地を軸に活動されてくるというのもあると思えます。浪華写真倶楽部が大阪で、その流れの中で丹平写真倶楽部が大阪で、その流れから分派と統合してシュピーゲル写真家協会が、芦屋で芦屋カメラクラブがほぼ単独で運営されます。丹平が府県別に分派され、京都丹平が運営され、そこから京都シュピーゲルがわかれてきます。作品の質がどうこうではなくて、人格と人脈が、サルの群れのように、地盤変動を起こすという感じです。

 一方、写真およびその周辺で営業を営む人がいます。営業写真館の主、カメラや感材を扱う写真機店経営者、それに職業を別に持ちながら作品つくりを行う人。そののちにはフリーカメラマン、新聞雑誌などの写真部員。さまざまな人が、写真倶楽部の構成員とになりますが、会長や指導者は、おおむね写真に関することで生計を立てる人、これらのひとを「プロ」とい言っていますが、それで生計を立てていない人の事をアマチュアと言うわけです。その呼び方でもって優劣をつけるということですが、ぼくは近年においてはその言いかた、分類は妥当ではないと思えています。職業写真家、職業カメラマン、これは関西に限ることではなく、写真館は全国にあったし、職業カメラマンは新聞社や出版社、それに広告代理店がある都市部に、職業カメラマンは存在します。写真館や写真機店の店主さんや職業カメラマンの人が写真倶楽部の構成員の一員でもあります。よくプロアマ混在の、なんて言いかたをしますが、ここではプロが上位でアマが下位というイメージで語られてると思います。

 教育の場で教鞭をとるという人、教授、先生、教員、いろいろ呼ばれますが、関西にも写真学科や写真を教える講座がある大学があり、専門学校があります。巷には写真教室なるものが多々存在し、そこで教えるkとがひとつのステータスになっているように思われます。教授、先生、教員はプロなのかといえば、そういう範疇には入らないと思うのですが、生活の資を教えることで得て、写真というメディアに寄生します。学校の枠をお話ししましたが、職能団体や美術団体に組まれて会員になることで立場を確立するというレベルがあります。写真倶楽部もそのひとつに数えてもいいもかも知れません。日本写真家協会や日本広告写真家協会などの職能団体、二科会や国画会といった美術団体、朝日新聞社が運営にかかわる全日本写真連盟、全国組織で東京頂点の視点委員会という写真団体もあります。個人はそれらの団体の一員となることで、ステータスとなり、優越感を得る素材としての役割を担います。現在、これらは関西だけの話しではなく、関東、東京に集約されている、東京優位、という現実も見えてきます。カメラ雑誌やメーカーの動きも、それらを構成する要素となります。


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2017年11月03日

関西の写真(史)-3-

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 ここに掲載した写真は、1982年に、大阪は順慶町のマンションで立ちあげた自主ギャラリー「ザ・フォーラム」のオープニング展の案内です。関西の写真史を考えるなかで、対抗勢力として、いわば野党として、立ちあげたギャラリーでした。関西の写真史を紐解いていくなかで、触れられることがあれば、触れていきたいと思います。さてさて、今は第二次世界大戦前、1930年以降で丹平写真倶楽部が設立されたところまで記述してきました。続きで、この丹平写真倶楽部が活動しはじめる年代というと、カメラを持つということが、普通の家計では持てない代物だと思えます。当時の百円というのが今でいうどれほどの金額なのか、ぼくの知識にはなありませんが、カメラ一台家一軒なんてことを聞いたことがあるから、それほどの高額だったのでしょうか。まあ、ある種、上流階級のお遊び事、ととらえるのは無理があるでしょうか。

 関西の写真史を紐解きながら気づくことは、そこにはヒエラルキーがあり、ピラミッド型の構図となっていることに気づきます。浪華写真倶楽部が屋台骨となっていると認識しますが、丹平写真倶楽部のメンバーが浪華写真倶楽部のメンバーを兼ねるわけです。また、倶楽部のなかにヒエラルキーがあって、上位者はそれぞれに「写真(カメラ)クラブ」をつくり、会長または代表者となられます。ぼくは、それをセクト化する、と言っていますが、関西に限らず、全国的に「写真(カメラ)クラブ」なるものが存在しているところです。誠友写真会(徳田誠一郎)、稚草社(田中幸太郎)、光人会(棚橋紫水)、大阪光芸倶楽部(入江泰吉、岩宮武二)アヴァンギャルド造影集団(花和銀吾、平井輝七)。今、参考資料として手元にある京都丹平史譜2008年版に表記されている1930年前後から1945年終戦までの集団名と代表者名です。

 ウイキペディアの記事をコピペしますが、<京都丹平(きょうとたんぺい)は、1946年(昭和21年)に京都において、和田生光・木村 勝正らによって創立された、主としてアマチュア写真家による団体。 京都丹平の母体は 、当時大阪に活動拠点を置き、安井仲治・上田備山氏が中心であった丹平写真倶楽部。
 京都丹平の母体は、当時大阪に活動拠点を置き、安井仲治・上田備山氏が中心であった丹平写真倶楽部である。戦後まもなく、兵庫・奈良・京都に丹平写真倶楽部を母体とする支部が次々と創設されていった。現在の会長は西岡伸太。>
丹平倶楽部は、1946年以降、京都丹平、兵庫丹平、奈良丹平、と府県単位で倶楽部が結成されることになります。ここでは京都丹平から掘り起こしていこうと思います。

 丹平倶楽部の流れもさることながら、1953年にはシュピーゲル写真家協会が大阪を中心に結成されます。ここのメンバーは、(敬称略)棚橋紫水、河野徹、木村勝正、和田生光、岩宮武二、堀内初太郎、といったぼく自身も当時から名を知り、面識のあった方もいらっしゃる人たち。1976年にぼくは、京都シュピーゲルから改称された光影会の会員になり、1981年まで会員籍を置いていたわけです。その関係から言っても、それなりに敵対意識というより親和意識のほうが強くあります。ああ、丹平倶楽部は、京都で京都丹平と京都シュピーゲルの二派が君臨しますが、京都シュピーゲルは1965年に、京都丹平から分かれてきます。木村勝正さん以下のメンバー(詳細は別途)で結成されることになり、京都シュピーゲルにいたぼくには、まわりの先輩たちが丹平のことの悪口をいうので、ついつい丹平に反感を持ってしまったのです。いま、立場的には、ぼくはそれらの時代の写真倶楽部や撮られ発表された写真について、かなり俯瞰的にみることができると思っているから、私情は極力抑えていこうと思います。
(続く)

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2017年11月02日

関西の写真(史)-2-

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 オーソドックスに関西の写真シーンを時間軸を縦にみると、浪華写真倶楽部が1904年に結成されたと記録されています。そういえば100年記念展の案内ハガキを頂いた記憶がありますが、そのハガキは、もうぼくの手元にはありません。処分してしまったなかに含まれていたと思います。さて、この浪華写真倶楽部のメンバーを羅列すると、桑田正三郎、石井吉之助とあり、上田備山、安井仲治、小石清とあります。この浪華写真倶楽部は、現在においても活動されている関西写真史の骨格となる名門倶楽部です。先日お亡くなりになられた関岡昭介さんがいらした倶楽部で、ぼくが釜ヶ崎の写真展で、大阪で知り合った作家さんが関岡さんでした。話は戻して、安井仲治氏はその後、大正の終わりか昭和の初めごとに「銀鈴社」を立ち上げています。ちなみに昭和初期ですから1925年から1930年ごろに、安井仲治氏と川上備山氏は「地壊社」を、中山岩太氏とハナヤ勘兵衛氏が「芦屋カメラクラブ」を立ち上げていると記載されています。ここにあげた作家たちの作品イメージは、ここでは表記できませんが、別途、見る機会があれば見てみようと思います。そうして「丹平写真倶楽部」が1930年、昭和5年に大阪は心斎橋にあった「丹平ハウス」で活動します。丹平商会、丹平薬局写真材料部に写真家たちが集まったところからとられた名前が「丹平」でした。

 丹平写真倶楽部は浪華写真倶楽部のメンバーの一部で結成された写真団体で、上田備山氏を中心に、ほかにぼくが1978年頃に知っていた名前の人が、河野徹、本庄光郎、棚橋紫水、川崎亀太郎の各氏、安井仲治氏は後に参加したとあります。堀内初太郎氏、岩宮武二氏、木村勝正氏、和田生光氏、山本健三氏、大道治一氏の名前もあります。1930年の発足ですが、1946年に京都丹平を、1953年にシュピーゲル写真家協会を、1965年に京都シュピーゲルを立ち上げる木村勝正氏の動向が気になるところです。京都シュピーゲル1966年の会報に木村勝勝正氏の文章が載せられているので、転記しておきたいと思います。

「写真など今は昔のはなし」木村勝正
 今回はライカと私、に就いて書きます。私が最初にライカを持ったのは昭和五年頃と思ふ。関西写真業界の重鎮であり大阪写真材料商組会長を長くやっていた轟氏が上田商会から独立して、順慶町に店を出したのでそのお祝いの意味もあり、買ったのがライカのA型であった。
 当時は三十五ミリフィルムの入手はそう自由でなく、また今日の様な優秀なものではなかった。それでも、こんな小さなカメラで、こうまで写るものかと驚いたのである。
 浅沼商会の大阪支店がライカの普及に力を入れていて、桜井と云う、よく和服を着ていた番頭様がその世話をしてくれた事は前にも一寸書いた通りである。
 また奈良公園の写真コンクールの一等をもらって、その賞金百円を得て、かねてほしかった、エルマーの九センチのレンズを手に入れた。まるまる太った愛くるしいレンズで、その代価は九十円である。
 大阪のシュミットに梶夏史と云う人がいたが、その職分は知らないが、中々粋な御仁で、筆に立つ方で、関西のライカクラブ員の作品を主とした立派な画集を出した。私は、ライカの原画による、商業写真を出したが、東京から木村伊兵衛氏もタンバールで撮った美しいのを載せていた。
 ライカについては、まだまだ沢山の想い出はあるが、縁あって今の場所に店を持つ事になったのが昭和二十二年で、長男が戦火の中から持ち出して呉れたライカを売って、粗末ながら、材料店の格好を造る事が出来たのである。その金額は千円に満たないものであるが、それでも当時としては、それが出来たので、店を開けてから、何としてもライカは、取り戻さなければ、と努力をした。
 そして半年の後、新しいライカを持つ様になった。
 以来、営業も順調に発展して行き、子供達も、それぞれ社会に立って行って倖せな家庭生活を営んでいる。
 写真団体のお世話は、丹平クラブの京都支部を作ったし、また更に意を新しくしてこの京都シュピーゲルを一年足らずに、立派な同志の熱烈な協力のもとに今日の地位を作る事が出来た。
 私がライカフレックスを持つ事に身分不相応と思われるだろうが、今日のこの営業なり、それの伴ういろいろの事が、この店の開業の本になったライカの事を思って、このカメラを持っているのです。
 写真など今は昔のはなしも、一応これで休みます。またいつかこうしたものの書ける日を楽しみにします。
(以上、全文掲載しました)




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2017年10月31日

関西の写真(史)-1-

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 かねてより気になっていることがあって、その気になることとは、自分という人間を、自分としていかに捉えるか、ということです。自分ことを知るためには、自分が立ち会った、つまり身体をもって経験したことを軸にして、枠を拡げていくことで、それなりに、自分として自分を客観化できるのではないかと思っているのです。朝から、関西の写真の歴史を紐解く手がかりとしての一枚の印刷物を手にしていたところです。2008年4月1日現在という日付が入った「京都丹平 史譜」というA4一枚の印刷物です。ぼくの手元にはこの、浪華写真倶楽部からはじまる系譜資料と、京都シュピーゲル1966年からの会報、1977年関西二科会写真部の会員名簿、です。京都シュピーゲルは後に光影会と名称を変えていて、ぼくはこの光影会に、1975年ではなかったかと記憶を辿っていますが、入会することになりました。直接のきっかけは、この時からはじまったと思っています。

 関西の写真(史)、どこから書き始めようかと思うところですが、個別の作品論というより組織と個人という関係の中で記憶されるべく記録がこれだと思えて、ぼくが知る範囲で、実体験、知識だけ、これらを織り交ぜて、書いていこうと思います。そのことでいえば、別の所でも書いていますが、達栄作さんとの出会いが最初の話題かも知れません。1965年に京都シュピーゲルが、木村勝正さんを軸にして創られる写真倶楽部で、木村勝正さん死去の後をうけて、達栄作さんが会長となられ、会の名称が光影会、のちには光影会写真倶楽部となるところで、ぼくがこの光影会の会員になったというところです。写真倶楽部という集団は、おおむね月例会を開催しています。撮影会なるものを実施しています。月例会では写真にランクがつけられ、点数がつけられ、会員相互をランク付けします。写真雑誌に日本カメラとかアサヒカメラとか、そこにある月例コンテスト、その形式をお寺とか会館とかに集まって、点数をつけていくというものです。1976年当時、光影会では、月例会において提出された写真にランクをつけることを廃止されていて、見て論じるだけ、という方式に改められていました。
(続く)

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2017年10月30日

写真史の構成-2-

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 フォトハウス表現塾のテーマで、全六回にわたって、写真という枠組みを歴史的な時間軸の中で明らかにしようとの試みを企てました。なによりも自分のための学び直しが中心ですが、この半世紀の歴史をかいつまんで論じようと思うところです。1960年代のアメリカで起こっていたことをとらえて「コンポラ展の時代1960年代から」続いて日本の1970年代、厳密にはプロヴォーグは1968年からの発刊だから、それも含め「プロヴォーグの時代1970年代から」としてしていて、日本の写真史の枠を確定していきます。そうして「関西の写真史」に及びますが、ここでおこなえる検証は、いわゆる写真写真の写真であって、アート的とかの写真はおおむね排除されてしまう結果となります。なので、続編では排除された写真と合流させて、全体を捉えられないかと思うところです。

 上記の三つの枠は、アメリカ1960年代以降、日本1970年代以降、関西1930年代以降、という設定で、2017年現在、今の写真作品の現れ方についての考察材料としたいところです。ところで、最初の枠が「現代アートと写真の現在、その動向」をタイトルにして、全体の出口として示唆するように仕向けたところです。四回目には文学評論の柄谷行人氏の論文「日本近代文学の起源」を文学という立場からですが、作家の内面史みたいなところで「風景の発見」、「内面の発見」、「告白という制度」などの論があって、その論が写真の流れをつかむにも適用できるのではないかとの考えで、取り入れたところです。次には東松照明の軌跡とその周辺」ということで、日本を代表する現代写真の作家と認定します東松照明さんの作品群、テーマとなった事象を見てみようと思います。と同時に東松照明さんの通り道におこる渦のなかにいた写真家などの仕事も取り上げてみたいと考えています。

 全六回のそれぞれのテーマを研究材料として提起しますが、この提起は中川個人の見識ですから、これを軸に、対抗軸を出していただくメンバーを頂きたいと思うところです。この六講の中身を軸にして、これを深めていく、これの周辺領域から他の解釈方法へ、あるいは商業写真やデザインとしての写真や心象主義的な写真や、様々に絡みながら、全体が作りあげられれば、と考えるところです。ぼくなんぞは、中途半端なままで、いっちょまえに論を語るわけですが、そうではなくて、批評というレベルで、論文を書かれ、あるいは論じられる人が出てこられることを希望するところです。写真=静止画という領域の現在的なありようを、どう解釈するかということが、いつの時代にも必要なことで、優れた批評家が優れた作家を生み出す、という仮説を提供したいと思うところです。
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2017年10月13日

日本の風景-3-

教王護国寺(東寺) 2017.7.21
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