2018年07月16日

表現の彷徨-4-小説のはなし

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事実は小説より奇なり、なんて言葉があったけど、やっぱり小説の方が奇妙ですよ。
想像力にまかせて、小説が書かれる、フィクション、作り物、です。
とはいっても、ひと頃、私小説っていうのは、起こったことを克明に書く、という。
究極、そこま描くことを限定してしまうと、小説のために現実をつくる、ことになります。
小説は、フィクションで、作り話で、現実にありそうで、あってはならない現実を描く。
それに基づいて描かれる小説の世界は、現実に起これば、犯罪領域になる事象が描かれる。
犯罪っていうのは、言い過ぎだけど、それは人間の欲望の証しなのかも知れません。

人殺しは犯罪ですが、人殺しをする小説がありますね。
ドストエフスキーでしたか、罪と罰でしたか、老婆殺しだったと記憶しています。
そればかりではなくて、非道なことが小説の世界では、行われます。
どういうことなのか、文学の領域で、セックスの扱いもあるじゃないですか。
官能文学とか、現在的には、そういうジャンルがあって、そこで様々な行為が行われる。
人間の隠れた癖的なこと、些細なことだけど、セックスに関わること。
生きること、子孫を残す本能、これなんだと思うけど、隠されていますね。

時代と共に、開放されてきた性の話題です。
まだまだ、おおっぴらに話ができる環境には、なっていないとは思いますが。
モラリストの日本は、世界の潮流から、遅れ遅れで解放されてきたところです。
いつまた封鎖されるかわからない神国日本ですが、神の国こそエロスなイメージです。
文学も、映像も、この領域を排除したところで、成立させようとされていますが。
それは、本来的な意味からいっても、越えなければいけないハードルだと思います。
アダルト領域の表現は、もっと正当に扱われるべきものではないかと、思っています。


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2018年07月13日

フォトハウス-3-

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最初、写真舎という名前を使っていたのですが、そのまま英訳してフォトハウスとしました。
東松さんからは、バウハウスを想起しているのか、と問われて、意識していますと答えました。
その後、デジタル・バウハウスとの呼び名が出てきたときには、フォトハウスを想起しました。
新しい時代をさきがけて、新しい潮流を創生していく組織体としての、デジタル・フォトハウス。
フォトハウスがこだわるのは、静止画を制作するということの全て、です。
いまや静止する画像と、画像が連続する二次元映像、視覚的に立体化する映像態があります。
一枚の静止画は、具体化するイメージの原点です。
静止画は、絵画から始まり複製可能な版画、そこから写真術が発明されてきます。

ニエプスが最初に画像を得たのが1826年とありますから、それからおよそ200年が経ちます。
人間が描く絵画ではなく、自然が描く絵画として、日本語で「写真」フォトグラフィーです。
写真術は、ゆっくりと生成してきて1990年代になってデジタル化してきます。
いまやカメラはデジタルカメラ、カメラの構造、記憶素子はフィルムからデジタル信号です。
写真の歴史200年、そのいつの時代を輪切りにしても、そこから作品が生じさせられます。
新しい方法にだけに、優先的に価値を与える、という方法はとりません。
ただ何時の時代もそうですが、最大の関心ごとは、今、新しい機材が作り出す作品のことです。
フォトハウス表現塾を創っていきますが、そのなかみは、写真200年史の全体が対象です。

写真というコアがあり、その周辺に、並列的に絵画、映像があります。
時系列に並べると、絵画、写真、映像、ということになります。
映像は、バーチャルリアリティを獲得し、メディアアートへ展開してきています。
絵画、写真、映像の流れは、技術的なサポート、機材の開発によって展開します。
アーティストは、それぞれの時代に、その機材によって新しい作品を生み出します。
このときの「新しい作品」そのものは、文学や音楽の潮流と交流すると考えています。
意味するもの、価値生成させるもの、それが言葉であり、文学領域であると思っています。
分化させたセグメントを組み合わせていく作業が、いま思考的に求められているのです。

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2018年07月09日

フォトハウス-2-

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1984年に設立されたフォトハウスですが、現在は写真の表現塾を開塾しています。
主宰者は、中川繁夫、いまやマルチに思考する老人です。
このブログの名称は「美術・写真・映像・音楽・文学」とアート領域を網羅しています。
これはアート領域の、根底に共通する個人の、考え方や、感情の在処を、探るのが目的です。
アートをめざす人が、技術的なことだけではなく、その内容、コンテンツをどう作るか。
いちばんの根本にあることだと考えていて、そのことへ、どうアプローチするのか。

それは、アート作品を貨幣の代わりに使うということではなく、生きる本質に迫るもの。
こんな、わけのわからないと思われる、大体の人が避けて通ろうとする領域へ、降りていきます。
アートのそれぞれには、テクニカルなこと、テクニックの取得が必要です。
でも、テクニックのことだけでは、ダメだということもお分かりかと思う、闇の部分。
言い方わるいけど、闇の部分を、どうやって明るみにしていくか、この作業が必要でしょう。
フォトハウスが、いま求めるのは、このことです。
へんに下部に融合していくことではなく、理想を追い、理想の中身を求めること。

只今<カフェ&プレス>という場を、具体的に顔を合わせられる対面の場を、作っています。
京都の北区紫竹の、<アマノコーヒーロースターズ>のお店のデスクを、この場にしています。
新しい捉え方をするための、トレーニングの場、ブレーンストーミングの場、とし機能します。
ここに掲載している写真イメージは、アマノコーヒーロースターズの店内風景です。
手前のデスクが、具体的な対面のデスクです。
資本を持った組織や個人が資本に任せて展開するアートではありません。
持っていない者が集まっていく、古い言い方ですが草の根運動みたいなもの、これです。

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2018年07月07日

映像を提供する立場

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写真や映像を、表現の方法として使う個人を、作家と呼ぶことにします。
タイトルは、映像を提供する立場、なので作家であることが基本です。
作家によって制作された作品は、いくつかの枠組みの中で他者に提供されます。
提供者が個人であるか組織であるか、有料なのか無料なのか、これの組み合わせです。
組織が有料で個人に提供する、個人が無料で個人に提供する、そのほか、です。
作家は、作品を提供する代償として対価を得ますが、これが基本形です。
プロ、アマ、という言い方は適切ではないけれど、対価を得るのがプロです。

ところで、今やアマチュアという言い方は妥当ではないけれど、無償提供があります。
写真なら展覧会、映像なら上映会、これらを企画して、有料にならない場が多くあります。
もちろん、無料という向こうに、有料という領域があって、そこに繋げられるかどうかです。
いやはや、まったく有料には繋がらないところで、無償提供する、そのこともあります。
提供する立場としても、個人生活において消費のための金銭が必要になるから、稼ぎたい。
でも、個人生活のための金銭は別のところで稼ぐから、作品では稼がない。
作品を扱うのにお金、金銭の介在が、大きな意味を占めることになります。

制作した作品がお金になるかならないかの議論は、いまのとこと置いておいておきます。
映像を提供する立場として、その内容、コンテンツのテーマ、これが大事です。
制作者の目的が、はっきりしていなければ、提供される方が、戸惑ってしまいます。
大きくは、劇場で鑑賞する映画、テレビで放映されるドラマ、商用につくられ作品です。
これらは大きな社会装置の中で作られていくので、個人としてはコンテンツ提供者です。
そうではなくて、個人が制作する映像、YouTubeにアップして、無料で提供する作品。
映像に限らず、絵画や写真、文学作品においても、社会システムのなかで、成立します。



posted by shigeo at 17:44| Comment(0) | 映像論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月01日

映像を享受する立場

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映像は、一枚の写真イメージが連続したもので、最初の映画が制作されてから120年ぐらいでしょうか。
1895年、パリにて公開上映されたようですね。
これは写真の技術発明が1839年、それから半世紀以上経ってから、機械が開発されることによります。
写真技術だってそうですが、それを構成させる機械、カメラであり映写機であり、これが必要でした。
それから120年を経て、これから観察していく現在的在りかたにまで及んでくるところです。
今の現状を、ひとことでいえば、ネットの時代にネットを通じて享受する、これが先端であると思います。

体験的に映像論を紡いでいけばいいと思って、自分を振り返りながら記述していこうと思います。
およそ半世紀の映像の流れが表わせればと思うところ、1960年代から入ろうと思います。
映画館で見る映画のことです。
1950年代半ばでしょうか、文献的資料を手元に置かないので記憶だけですが、日本映画です。
東映のチャンバラ映画と怪人二十面相、大映や松竹の文芸映画、東宝、新東宝、日活がありました。
全部で六つの映画制作会社があって、ぼくは京都の西陣において、その映画を見ました。

高校生になるのが1962年で、河原町界隈の映画館で洋画を見るようになります。
高校を卒業するのが1965年、それから数年間には、エロス系の映画を観に行きます。
封切館ではなくて、二番館といえばよろしいか、パートカラー映画三本立てとか。
まだビデオがなかったころで、レコードプレーヤーと45回転ドーナツ版とLPレコード。
8ミリ映画の映写機、そのうちテープレコーダーと磁気テープが出始めます。
ビデオデッキとビデオテープが世の中に出てくるのは1970年代の何時でしょうか。

ビデオカメラ、ビデオデッキ、ビデオテープ、この三点が個人所有できるのが1970年代後半。
1980年代の初めごろには、VHS方式が主流になって、ビデオデッキでテレビを録画する。
ビデオカメラが普及する裏側には、男女の内緒の場面を、カメラで録画することがあります。
出版物も、写真も、そうですが、男と女の出来事がいつも記録され、鑑賞され、残されます。
個人制作することも可能になりますが、それうよりもメディアを販売するルートが作られます。
書店で買う、ショップで買う、貸本屋があり、貸ビデオ屋があり、つまりレンタルショップです。

アダルトショップの話になるから、現在日本のここでは、不適切な内容なのかも知れません。
なので概略だけにしていきますが、性を扱う内容のイメージは、観るのに制限がかけられます。
映画館では18歳未満お断り、本やビデオテープもそのようで、その部分は修正して隠します。
ビデオテープの時代になって、個人で撮られて観られる以外は、専門の店頭では対面です。
それがネットの時代になると、対面ではなくなります。
つまり販売や提供する相手が見えないところで、契約が成立してしまいます。

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2018年06月20日

表現の彷徨-3-

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街へ出て時間があったので久々に書店に入って雑誌コーナーを見ていた。
月刊誌のコーナー、文芸誌や総合誌のコーナー、昔を思い出しながら眺めていた。
そのなかに「これが官能小説だ」という小説特集があって、手にしてみた。
案外廉価だったし、知った名前のおなごさんの小説も載っているので買った。
ふむふむ、官能小説、最近は読んでない、小説自体を読んでない。
写真の展覧会で、極彩秘宝館に参加した経緯があるけれど、これは映像だ。
直接的な映像や静止画とちがって、文章になると、読む努力が必要だ。
このイメージ展開にぼくも興味があって、10年ほど前から文章表現を試みてきた。

文章表現のなかの小説といえば、最近は芥川賞作品を文春で読む程度だった。
ひところ、最近といっても、もう十数年前になるが、乱読したときがあった。
文芸書だけではなく科学書、哲学書、宗教書、かなり読んだところだった。
ここでいう官能小説の区分には、分かりかねていて、どう処理したらいいのか。
乱読しているなかで、フランス書院、河出文庫、幻冬舎文庫、の文庫本も乱読。
外国モノの翻訳は読まなくて、日本の明治期から現代まで、地下本を読んだ。
家風とか潤一郎とか、それだけじゃなくて、文学史的には無視された作家たち。
そうい領域の文学が、21世紀になって解禁されてきたように思えた。

官能小説と区分されるフィクションは、団鬼六とか他の作家たち、読んだ。
純文学ではなく、直木賞対象の大衆小説でもなく、官能小説の存在。
興味があって、評論の軸にしようかと思うけど、世間体ということがある。
古希を過ぎたあたりから、これは明らかにしていかないと、いけない。
そう思うようになり、匿名で手掛けてきたフィクションとか、少し明るみにした。
そういうなかで、手にした官能小説集、いま、文学では、なにが起こっているのか。
あらためて、批評の表に出してこないと、文学自体が、矮小化してしまうと思われる。
まだ、時代が追いついていない感があり、ますます区分されているけれど。



posted by shigeo at 11:38| Comment(0) | 表現の彷徨 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする