写真のはなし-4-

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<写真を見る場>
いまなら、デジカメかスマホで写真を撮ります。
SNS、インスタグラムとかツイッターとかフェースブックにアップして、公開する。
いま、こういうことができるのが、写真の現場です。
多くの人がこの方法で、撮った写真をアップしています、ぼくもしています。
もちろん写真を撮るということ、それへの考察がひとりひとりのなかで必要だと思います。
でもそれはいま置くとして、人が集まり、見せあい、人との中で心の交流をはかる。
そういう場が必要です。
たまたまそれは写真だから、写真の話になるわけです。
誤解してもらって結構、写真ってイージーですよね、簡単です。
何より処理工程が簡単ではないですか、フォトショップとか使わなくてもです。
それは昔も今もそんなに変わらない。
昔はカメラにフィルム入れて現像して紙に焼いてというプロセス。
今はデジタルカメラで、シャッターを切って、そのままネット配信してしまう。
でも、でも、ちょっと待て、それじゃだめだよ、と写真関係者はいいます。
まあ、ぼくも言うけど、それじゃだめだと言って、そうすりゃいいのか、ということ。
多様化してる、写真を使う使い方、価値が多様化してる、写真だけじゃない。
自分を表現するアイテムとして、写真ってゆう手段があるんだよね。
ここに掲載した写真は、東松照明さんに自分の写真を見てもらってる場面です。

写真のはなし-3-

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写真とは言っても、写真を学ぶ器のはなしです。
写真学校という枠組みあって、そこで、写真を撮る、写真を処理する、などを学びます。
でも、ぼくなんか、写真学校へは行ってなくて、カメラクラブで修業した部類です。
今は、枠組みはどうでもよくて、学びの場所をどこにするのかが問題だと思う。
新しいグループを作ろうと思って、只今、呼びかけているところです。
関西の歴史的背景に、カメラクラブの存在があって、そこで修練したわけです。
そういう意志を持ったカメラクラブを、再生させて、個人の自立を求めようと思う。
フォトハウスの企画、それの最新版、写真のワークショップを開催ですが。
名称が、写真研究会、としているところで、写真の写真から遠い所で行います。
といいながら、いま、なぜ、行おうとしているのか、ということに答えないといけないな。
自分の欲求、自分の立ち位置、立っている場所、拠って立つ拠点、いろいろ。
自分のことを見極めていくために、他の人と交わりたい、このように思うのです。
世の中にさまざまあるシステムに反撃していく拠点を作り出したい、なんて。
かってあった運動論に論拠を置いても始まらないから、今の論拠を創りたい。
学びの場は、経済活動からいったん切り離して、学ぶことの純粋性を追求したい。
芸術あるいはアートすることは、経済活動とリンクすることではない。
理念的には、商品性からいったん切り離して、芸術あるいはアートを捉える。
これは人間の在り方、基本的存在を、世界システムの何処に置くかということ。
使用した写真は、1980年代初めに撮った白虎社の舞台写真です。

写真のはなし-2-

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天岩戸神社の本殿というのがこの写真に写った祠です。
この説明がなかったら、この写真を見て、人は何を思うでしょうかね。
写真は目に見えるモノが平面にあらわされた人工のものです。
目に見える実物をコピーしていてそれはそれだとわかるのですが。
これが天岩戸神社だということはそういう説明がなされてわかる。
言葉に支えられているイメージだから、言葉がなければただの風景です。
やっぱり言葉の積み重ねで意味を構成しているから言葉がないと意味がない。
そもそもこの「言葉がないと意味がない」という文脈から写真を外すとどうなるか。
わけがわからない、先に得ている情報で、これは祠、神の祠、これくらいはわかるか。
でも、これだけでは意味をなさないから、言葉で様々な意味をつけていく。
でもなぁ、写真って、こういうもんではないんじゃないか、と思う。
ここから、写真というモノをとらえていくことを考える必要があるのではないか。
写真に撮られたモノの価値によって語られる写真ではなくて、写真自体が価値となる。
そういう写真とは、いったいどのような写真だと、言い当てればいいのでしょうか。

写真のはなし-1-

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あんまり難しく考えると文章が書けないからここが更新できない。
だからブログタイトルも「写真のはなし」と改名して、ざっくばらんに書いてみます。
写真と言ってるけど、写真ばかりに興味があるわけではなく、写真の奥に興味がある。
写真の奥って、写真に撮ってあげる被写体の意味するもの、これを撮る、ということ。
写真だけじゃなくて、絵画とかも含めて、平面イメージ表現といえばいいのでしょうか。
目に見て思う平面、写真や絵画、このイメージ物とその描かれている物を見て思うこと。
よくわからない、なんでそれなのか、なんで相手がそれを示してきているのか。
ぼくは示すほうでもあるので、示すそのなかみが、何なのか、ということを考えます。
写ったり、描いたりすることではなくて、その相手、写るもの、描くもの、それと自分。
なんだか、わけがわからなくなってくるから、言葉が紡げなくなってしまうのでしょうね。
こういう性格といえばそうなのかもしれないけれど、納得しようと思うわけです。
ところが納得しようがないところへ行ってしまって、悩んじゃうんですね。
でも、好きなお方が、撮った写真や描かれた絵は、それだけで自分のものにしたい。
手に入れたい、抱きしめたい、そのような感覚になってしまいます。
ということは恋の代償物として、そこから恋の相手の心を探る、そういうことだろうか。
わからないけど、共有したいと思う、その対象が写真に撮られた物、そのものでしょうか。