2018年02月28日

写真のはなし-7-

_20180227_134600.JPG

久々に<写真のはなし>をタイトルにして、書いてみようと思います。
ぼく自身のアート的な経歴のなかで、写真に関わった時間が一番長いと思います。
ひとの思考の中身なんて、話題が、あっちいったり、こっちへきたり、です。
そのなかでも、一番の関心ごとに、気持ちが向いていって、時間の大半を費やします。
そのことでいえば、アート的思考なんて、そんなに多くないんです。
むしろ恋した女子への想いとか、イメージを追いかけるとか、それがあります。
人の写真をじっくり見る、これはむしろ、あんまりしないですね。
じっくり見るといえば、自分の写真をいちばん興味深く、見ます。
それから好きになったヒトの写真、そのヒトが撮った写真、それです。

たしかに研究目的で、出版された写真集、企画された写真展をよく見ます。
そうして、それらの写真群に対して、てきとうな言葉を紡いで、文章にしたり。
でも、だいたいは、それが何を意味しているのか、それを思います。
歴史の史実に裏打ちされたイメージが、特にいいとは思わないんですが。
写真を見て、論じる、ということになれば、写真論がそこに成立します。
沢山の写真を見てきたけれど、それほど心打たれる写真には出会っていません。
ひとつあげるとすれば、古谷さんのクリスティーネでしようか、心打たれます。
音楽だって、文学だって、その音を、その文を、読んだだけで心打たれるのがあります。
そういうレベルで、写真を見て、心を引き込まれるのが、それです。
それは、古谷さんとクリスティーネさんの心の交流が、伝わるからでしょうね。
ステーグリッツさんのオキーフさんのポートレート、これも感動します。
でも、古谷さんのクリスティーネさんは、ロマンです、心揺すられます。

ぼく自身の写真は、自画自賛になるから、述べませんが、いい仕事してると思います。
でも、撮影するという、写真家としての根本のところを全うしていないからいけません。
いつも心のあり様によって、左右されてしまうから、決してプロではありません。
気まぐれだし、気儘だし、いきあたりばったりだし、深みがない気がします。
でも、写真って、写真行為って、なんなんだろうな、といつも問いかけてみます。
答えが返ってくるようで返ってきません。
もう何十年もかけて、同じ問いを発しますが、いっこうに答えが返ってこない。
写真にかぎらず、文学も音楽も、そういうものかも知れませんね。
また、わけのわかったような、わからないような、話を記述していきます。
フォトハウス表現研究所のホームページ

posted by shigeo at 13:52| Comment(0) | 写真のはなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月17日

自己表現の道具-2-

120scan1612310004.jpg

 芸術という分野があって、そこには歴史があって、今現在がここにあります。絵画の歴史、立体彫刻の歴史、陶芸の歴史、ここでは絵画を中心とする流れを、俯瞰してみようと思います。というのも、写真は絵画から発生してくる感じだし、映像は写真から発生してくる感じです。絵画から写真へ、具体的には1939年に写真術が発明、とされているから2018年現在でいえば、180年ほど前の欧州ということになります。絵画には絵画の歴史があって、それを制作した人、画家がいて、その画家と出来上がってくる絵の関係を探っていくと、画家の想いということが露わになってはこないか。いま、ここでいう自己表現、その道具としての絵画を介しての自己表現です。

 もちろん自己表現というとき、単純に、自分の内側を外に表すことだ、と一義的には言えると思います。この内側を外に表すための道具として、絵は絵の具を使い、筆を使い、材料として絵の具を使う。絵の具になるモノの種類とか、筆の使い方とか、道具をどのように使いこなして「絵」に仕上げるか、といった技術のことが解析されます。そういうことの流れでいえば、絵を書くという技術に対して、写真という代物は、光が描く絵、筆を走らせなくても、光を当てることで絵が描ける。そういう置き換えの方法を生み出したのがフォトグラフ、日本語で写真という代物です。自己表現の道具という以上に、写真の最初は技術的な問題をいかに解決するか、といった化学者的な思考が優先されたのであったと思います。そんな写真に、自己を表現する道具として意識されだすのは、いつ頃からでしょうか。

 自分の外にある世界に対して、自分の価値観によってその世界を見るとき、その世界が「どういう」ものななかとの自己判断が伴います。たとえばステーグリッツの写真「三等船室」(1907年)ですが、ここには移民の様子が目に見える形で表されるのだが、そのなかでもステーグリッツは下層といわれる人々が移民してきた船底の光景を上層の人々との対比で捉えています。この視点、このステーグリッツが注目した視点が、自分が感じて思想化した光景への想いを表した。つまり「自己表現」をした。その道具としてカメラを使った、ということになります。これは自己表現ということと、そのための道具ということの証しといえます。これで、問題が解決したわけではなくて、このことを前提にして、自己表現とは何かを探っていかないといけないのです。道具はカメラです。
posted by shigeo at 17:32| Comment(0) | 自己表現の道具 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月15日

自己表現の道具-1-

120sumah1801300136.JPG

 インスタグラムでフォトグラフ(写真)をアップしてコミュニケーション(会話)するというのが、今の最前線でしょうか。インスタグラムはソーシャルネットワークサービス(SNS)のひとつで、現在、フェースブック、ツイッター、インスタグラム、これが世界で人気の大手三つのSNSだ。もう消えてしまったSNSもあるが、ミクシーはまだまだ元気のようだ。それぞれに、閉鎖された個人間またはグループで、交信ができる。これにはライン、メッセンジャー、スカイプ。電話、テレビ電話、それも無料、つい最近までは夢だったことが実現している。

 使っている者からの実感としては、facebookがほぼ実名にて使うから、現実の人間とバーチャルな人間と同一人物として認識するから、とってもすっきり使い良い気がする。ツイッターもおおよそ実名での使用だから、facebookと同じ感覚で使える。ただし、情報の流れる速さでいえば、ツイッターは目まぐるしい。総合的にFacebookに軍配があがると思う。ただ、ツイッターはおおむね単機能に比較してfacebookが多機能ということで、使用者の使い勝手が分かれるところだろう。

 そういうレベルでいえば、インスタグラムは、ハンドルネームを使い、文章を極端に短くでき、または文章なしで、スマホに添付のソフトで、静止画および動画が撮れて、その場で発信できるという手軽さだ。若者に受けているという背景には、この手軽さ、イージーさ、それにコミュニケーションしやすい。なによりインスタグラムは赤いハートマークで、なんとなく、気持ちが共有できる。インシタ映えという流行語を生みだしているが、これは匿名性と簡便性が支持されてるのだと思う。

posted by shigeo at 06:03| Comment(0) | 自己表現の道具 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月08日

森鴎外のこと

120iphon1603310033.jpg
フォトハウス表現塾のHP

 まえに漱石のことに触れたから、その時代の文豪といわれている森鴎外について書いとかないといけない気持ちになっていました。森鴎外は軍医で、軍医を続けながら小説を書き続けた。そういうことでいえば、漱石は小説書きになる決断をするとき、教職を去って、やくざな小説書きになってしまう。漱石と、鴎外と、どこがどう違うのかといえば、このことです。本職になるか副業にしていくか、この違いだと思うのです。漱石が人間の深くへ降りていくのと比べ、鴎外はその形骸化した世界を描いたに過ぎないのではないか、と考えています。イタセクスアリスでしたか、ダンサーでしたか、性遍歴と舞姫、鴎外の初期の代表作だったと思いますが、そこには個人の煩悶する姿が抽出されたかのように思えますが、後期の歴史小説、大塩平八郎なんかは、通俗的な小説でしかなかったと思います。

 文学をたしなもうとして、小説を書こうとして、大学の文学部を志願して、近代日本文学を専攻したんだけれど、漱石に触れるのは卒業後ですが、鴎外は三回生のゼミで、テーマとしてその大塩平八郎を選んだところです。軍医のままに生涯を終える鴎外、それに対して今でいう大学教授の職を捨て、朝日新聞社に所属して小説を書くという道を選んだ漱石。決意の問題で、ぼくが気になっていたのは公務員をしている自分のことで、いずれどこかで漱石になりたいと思っていて、公務員を辞めるきっかけは、そこにありました。いま漱石よりも20数年も多くを生きている自分があって、なにしてるこっちゃ、なんて思っていて、時代と共に生きようと思っていて、素浪人となった今、本当の意味で、漱石が出来るかも知れないと密かに思うところです。別のブログで、小説を書くためのブログを先ほど作りました。「淡水文章ブログ」と命名したブログです。漱石さんが新聞連載していったように、ぼくはブログ連載で、少し小説に、フィクションしてみようと思うところです。

 たいした文章が書けるわけでもなく、読ませるだけの文体と内容が備わるかといえば、心もとない話ですが、そう決断したからには、自分なりに試行錯誤を繰り返しながら、エンドレスで行けたらいいなと思います。「淡雪の街」と名付けた小説、どういう展開になるかは未定。描きながら、ブラシアップするといっても連載形式で本番そのもので書くわけだから、行き詰まったら、最初から再度、書き直すしかない小説ですが。テーマは「愛」「性愛」「愛欲」なんていえば、18禁になってしまいそうだけど、そうではなくて、現代小説の枠に収まる枠組みで、書いていくつもりです。小説歴でいえば、2004年ごろから書き始めて、しだいにブラシアップされてきて、フィクションとしての要領もそれなりにわかってきたと思っています。同人<翔・翔>を再開します。やっぱり話し合うメンバーが欲しいと思っています。写真においてもグループを作って運営したいと思っていて、こちらはまだ名前がなくて<フォトハウス写真研究会><PH写研>でいいかと考えるところです。ちょっとしんどい話だけど、ね。
posted by shigeo at 17:21| Comment(0) | 文学のはなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月07日

フィクション作り話-2-

IMG_3766.JPG
フォトハウス表現研究所のHP
大きなテーマには本能、ヒトの本能、動物としての本能ということがあります。
本能にはいくつかあるけれど、食欲と性欲、基本にはこの二つだと認識しています。
テレビの番組では、食べ歩き、みたいな食欲にまつわり、見るヒトの心をつかむ。
書店へいけば、食物に関する活字と写真を組み合わせた月刊誌、雑誌、単行本。
食にまつわる情報が氾濫しています。
ところが、もう一つ、生存や生命にかかわる以上に、子孫を残すという領域の情報。
性欲にかかる情報ですが、これを表出させる、芸術作品への基底にするということ。
そのことについては、制約があって、社会通念上というカテゴリーが導入されます。
この生殖にまつわる部分の表現は、禁句になっている領域があるように思えます。
世の芸術家は、芸術の名のもとにこの部分について、表現を試みてきた歴史があります。
その表現についての近代で、いま現在の、タブーであるタブーでない、その区分線は何処か。
何時の頃からか、ぼくの大きな興味は、このことにあって、その視座から芸術を見ることでした。
その領域をタブーの領域と呼ぶなら、そのタブーをいかに取り扱うか、というのがテーマになる。
ぼくは傍観者ではなく、実作者として、そのことがいかにすれば可能か、を考えていたと思います。
文学において、絵画において、映像において、写真において、タブーとなる一線はどこなのか。
このタブーとなる境界線に興味があって、その線上でフィクションできないか、と思ったのです。
とくに文学上のこの問題について、表立って評論することも憚られ、作品化することも憚られる。
制作者の側の戸惑い、実生活でのそれらの作品の扱われ方、それらを含め表に出したいと思った。
いくつかの罠を仕掛け、バーチャルの世界で、バーチャルなファンタジーを構築すること。
その仕掛けを作ってきて、ほぼ十数年を経たところで、世の状況もかなり変化した感です。

posted by shigeo at 08:57| Comment(0) | 文学のはなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月05日

フィクション作り話-1-

120kyoto1802020008.jpg
フォトハウス表現研究所のHP
フィクション、これは作り話だから小説、ノベル、そういった類のものだと思った。
このフィクションをしてみたい、と思ってあれこれと、想像の中で見まわしています。
小説を書こうと思っていて、どういう筋書きで書けば、人を感動させられるか。
この、いかに感動させられるか、ということが作者にとって重要な事でしょう。
ある種、表現自体が、表現されてしまうと、それはフィクションとなってしまう。
だから、ここでいう美術から始まる五つのジャンル、出来上がったものはフィクション。
そのようにも言えるとおもうが、ここでは、小説を例に出してみようと思うんです。
フィクションの反対がノンフィクション、つまりフィクションでないこと。
作り話ではないノンフィクションではなくて、作り話を作ってみたい。
その作り話は、空想ものではなくて、現実にありうる、大いにありうる内容で書きたい。
テーマを何にするか、これには、今現在の世の中の関心ごとに絞ってみたい。
そうなると、ぼくには人間の本能に根ざした欲求が底辺にくるのだろうと思うわけ。
食欲と性欲、この基本をどういう枠組みで、描き出していけば、人は感動するのか。
まあ、ありきたりなことだけど、男がいて女がいて、その人間が住む環境があって。
それらが複合的に組み合わされ、組成されて、言葉から頭の中にイメージ化されること。
読者の感情を、どのように揺すっていくのか、これが問題になるところです。
食欲のシーンでは、様々なシーンが想定され、性欲のシーンでは様々なシーンが想定される。
このシーンを、言葉に置きかえていくことが、基本となってきます、文章力です。
イメージが言葉化されてイメージに戻されていく、そのプロセスに感情が喚起される。
読みやすくて、イメージ化されやすい文章、文体を研究しなくてはいけません。
そうこうしながら、フィクションを書こうとして、はたと困っている自分がここにいる。
表現することとは何ぞや、との問いかけを、際限なく続けている気がしています。
posted by shigeo at 15:46| Comment(0) | 文学のはなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする