かって小説を読んだ

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どうしたわけか、突然にある詩句が浮かんできたのです。
「ここを過ぎて悲しみの市。」太宰が小説の冒頭に使った文章です。
どうしたことか、突然に、思いがけなく、その詩句が、呼び覚まされてきたんです。
「虚構の彷徨」ってゆう三部オムニバス作品の一番目「道化の華」の冒頭です。
確認のために、太宰治全集(筑摩書房版)の第一巻を引っ張り出してきました。
心中した女が死んで、男が生き残る、男の名前は大庭葉蔵だという僕がいます。
なんとまあ、どうしようもない悲しい気持ちを揺さぶる文章ではないか、と思う。
太宰のフアンだったといえば、キミはどういう顔をするのだろうか、正直、怖い。
太宰は39歳で死んでいるんです。
ぼくはいま72歳だから、まもなく倍ほど生きることになるんですよ。
こわい男だ、小説の神さまみたいな太宰さま、です。
二十歳の時に読んで、かれこれ半世紀が過ぎて、突然に思い出てくる詩句です。
ここを過ぎての「ここ」とは、何処のことだ、と思い出すたびにいつも思う。
悲しみの市(まち)とは、どういう市なんだろうか。
太宰の頭の中に描いたイメージは、それが、道化の華の内容なのか。
でも、いま、この小説を読まない、ぱらぱらとパラパラ漫画みたいにしてみる。
なんか滑稽で悲しみのイメージばかりが詰まった文章のような気がして、読めない。
死ぬかもしれないと思っていたとき、キューブラ・ロスの「死ぬ瞬間」を開けてすぐ閉じた。
その時の感覚なのかもしれないな、ゾッとする戦慄に襲われ、クレバスが開いたからだ。
道化の華は昭和10年「日本浪曼派」に発表された、とあります。
紆余曲折、書きなおされ、この全集に収録された形になっているのか。

文学のはなし-3-

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先に記事を書いてアップしようとしたら、エラーが出て文章が消えてしまいました。
文章イメージと画像イメージとの関係性について、考察していたんですが、消えた。
ついてないなぁ、ではなくて、それは駄文だったから、パソコンがセーブしたんだ。
なんて、考えて納得しようとしているんですが、AIの時代、ロボットの時代ですね。
掲載した写真は手づくり市での「あおい」さんのテーブルです。
和紙写真・和箱・手織り<あおい>という名刺をいただきました。
文学のはなし、ぼくが文学の特に小説に興味を持ったのは、二十歳くらいだったか。
詩を書いて、手作りの詩集を発刊したりしてたのが17歳、高校二年生でした。
それから散文を書くようになるのですが、詩文よりも散文、小説に傾斜します。
たくさん原稿用紙を書き潰しましたよ、コクヨの原稿用紙ではなく特注の原稿用紙。
大学の論文原稿用紙を使いました。
でも、結局、続けられなかった、興味が薄れていきました、27歳かな。
たくさん、小説を読んだけど、読むばかりで書けない、読むこともやめた。
文学は、近代になって小説の形式が出来てくるんでしたか。
音楽もそうですね、古典派、ロマン派、とか形式と内容ですか。
絵画はかなり昔からありますが、近代絵画という印象派あたりからですか。
こう考えてみると、ぼくなんか、どっぷり近代の枠組みから離れていないですね。
文学の現在、現代文学は、そういうことになっているのか、分かりにくいです。
写真の現在、現代写真は、分かっているようで、分かっていないのかも、知れない。
いま、今をどう生きる、あらためて、<いま>をどうとらえるか、ですね。
テーマ自体が、今をどうとらえるか、ということで、<いま>への理解が問題です。
(続く)

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自己表現の道具-4-

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自分をアートの形として表現する、自己表現の手段だと思って作品を制作する。
制作して発表する、このプロセスで、自分に戻される思考って、基本的に必要だと思うんです。
でも、この自分という立場をベースに置く、という制作態度が、昔からあったとは思いにくいです。
自分をとらえるという問題は、近年、ぼくの感覚では、文学においては私小説、1930年代でしようか。
写真においては1960年代後半からではないかと、考えています。
いずれにしても、自己を捉える視点というのは、近年に起こってきた潮流だと思えるのですが。
いわゆる<自己の発見>、柄谷行人さんは<内面の発見>という名称を使っておられますが。
まだまだ、自分を捉える、という視点は、写真表現においては、一般化していないように思えます。


表現の彷徨-4-小説のはなし

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事実は小説より奇なり、なんて言葉があったけど、やっぱり小説の方が奇妙ですよ。
想像力にまかせて、小説が書かれる、フィクション、作り物、です。
とはいっても、ひと頃、私小説っていうのは、起こったことを克明に書く、という。
究極、そこま描くことを限定してしまうと、小説のために現実をつくる、ことになります。
小説は、フィクションで、作り話で、現実にありそうで、あってはならない現実を描く。
それに基づいて描かれる小説の世界は、現実に起これば、犯罪領域になる事象が描かれる。
犯罪っていうのは、言い過ぎだけど、それは人間の欲望の証しなのかも知れません。

人殺しは犯罪ですが、人殺しをする小説がありますね。
ドストエフスキーでしたか、罪と罰でしたか、老婆殺しだったと記憶しています。
そればかりではなくて、非道なことが小説の世界では、行われます。
どういうことなのか、文学の領域で、セックスの扱いもあるじゃないですか。
官能文学とか、現在的には、そういうジャンルがあって、そこで様々な行為が行われる。
人間の隠れた癖的なこと、些細なことだけど、セックスに関わること。
生きること、子孫を残す本能、これなんだと思うけど、隠されていますね。

時代と共に、開放されてきた性の話題です。
まだまだ、おおっぴらに話ができる環境には、なっていないとは思いますが。
モラリストの日本は、世界の潮流から、遅れ遅れで解放されてきたところです。
いつまた封鎖されるかわからない神国日本ですが、神の国こそエロスなイメージです。
文学も、映像も、この領域を排除したところで、成立させようとされていますが。
それは、本来的な意味からいっても、越えなければいけないハードルだと思います。
アダルト領域の表現は、もっと正当に扱われるべきものではないかと、思っています。


フォトハウス-3-

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最初、写真舎という名前を使っていたのですが、そのまま英訳してフォトハウスとしました。
東松さんからは、バウハウスを想起しているのか、と問われて、意識していますと答えました。
その後、デジタル・バウハウスとの呼び名が出てきたときには、フォトハウスを想起しました。
新しい時代をさきがけて、新しい潮流を創生していく組織体としての、デジタル・フォトハウス。
フォトハウスがこだわるのは、静止画を制作するということの全て、です。
いまや静止する画像と、画像が連続する二次元映像、視覚的に立体化する映像態があります。
一枚の静止画は、具体化するイメージの原点です。
静止画は、絵画から始まり複製可能な版画、そこから写真術が発明されてきます。

ニエプスが最初に画像を得たのが1826年とありますから、それからおよそ200年が経ちます。
人間が描く絵画ではなく、自然が描く絵画として、日本語で「写真」フォトグラフィーです。
写真術は、ゆっくりと生成してきて1990年代になってデジタル化してきます。
いまやカメラはデジタルカメラ、カメラの構造、記憶素子はフィルムからデジタル信号です。
写真の歴史200年、そのいつの時代を輪切りにしても、そこから作品が生じさせられます。
新しい方法にだけに、優先的に価値を与える、という方法はとりません。
ただ何時の時代もそうですが、最大の関心ごとは、今、新しい機材が作り出す作品のことです。
フォトハウス表現塾を創っていきますが、そのなかみは、写真200年史の全体が対象です。

写真というコアがあり、その周辺に、並列的に絵画、映像があります。
時系列に並べると、絵画、写真、映像、ということになります。
映像は、バーチャルリアリティを獲得し、メディアアートへ展開してきています。
絵画、写真、映像の流れは、技術的なサポート、機材の開発によって展開します。
アーティストは、それぞれの時代に、その機材によって新しい作品を生み出します。
このときの「新しい作品」そのものは、文学や音楽の潮流と交流すると考えています。
意味するもの、価値生成させるもの、それが言葉であり、文学領域であると思っています。
分化させたセグメントを組み合わせていく作業が、いま思考的に求められているのです。

フォトハウス-2-

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1984年に設立されたフォトハウスですが、現在は写真の表現塾を開塾しています。
主宰者は、中川繁夫、いまやマルチに思考する老人です。
このブログの名称は「美術・写真・映像・音楽・文学」とアート領域を網羅しています。
これはアート領域の、根底に共通する個人の、考え方や、感情の在処を、探るのが目的です。
アートをめざす人が、技術的なことだけではなく、その内容、コンテンツをどう作るか。
いちばんの根本にあることだと考えていて、そのことへ、どうアプローチするのか。

それは、アート作品を貨幣の代わりに使うということではなく、生きる本質に迫るもの。
こんな、わけのわからないと思われる、大体の人が避けて通ろうとする領域へ、降りていきます。
アートのそれぞれには、テクニカルなこと、テクニックの取得が必要です。
でも、テクニックのことだけでは、ダメだということもお分かりかと思う、闇の部分。
言い方わるいけど、闇の部分を、どうやって明るみにしていくか、この作業が必要でしょう。
フォトハウスが、いま求めるのは、このことです。
へんに下部に融合していくことではなく、理想を追い、理想の中身を求めること。

只今<カフェ&プレス>という場を、具体的に顔を合わせられる対面の場を、作っています。
京都の北区紫竹の、<アマノコーヒーロースターズ>のお店のデスクを、この場にしています。
新しい捉え方をするための、トレーニングの場、ブレーンストーミングの場、とし機能します。
ここに掲載している写真イメージは、アマノコーヒーロースターズの店内風景です。
手前のデスクが、具体的な対面のデスクです。
資本を持った組織や個人が資本に任せて展開するアートではありません。
持っていない者が集まっていく、古い言い方ですが草の根運動みたいなもの、これです。