ここから-3-

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新型コロナウイルスの蔓延で、世の中が大きく変わっていく気がします。
世界経済がどんな構造に変化していくのか、一層のグローバル化が進むのかも。
それとも、もっとフラットな、貧富の差があまりないようは構造になていくのか。
こんな大きな話を、ここでしても、いまさら、どうにかなるわけでもないです。
ぼくなんか小市民的な、一生活者にしかすぎないから、大海に浮かぶ笹舟です。
だから、もっと自分に即した、生きていてよかったなぁ、と思えるようになる。

明日、結婚記念日で、50年を迎える、とともにぼくの誕生日、満74歳になる。
まだこの先10年ある、と思う気持ちと、そんなにないと思う気持ちが入り乱れです。
もう一仕事、なんて思う気持ちと、もうここまでだよ、と思う気持と入り乱れです。
でも、もう、今年に入って、もうここまでだな、という気持ちが強くなりました。
ここから、なにを、どのように、展開していけばいいのか、それを思案しています。
基本的には、自分の方法で、自分の満足を優先して、気持ちに即していこう、です。

どちらかといえば、自分の作品創りの方に重点を置いていく、いつまでも現役。
組織化していく方向は、もう追随する側にまわればいいか、と思うところです。
静止画である写真制作と、フィクションとしての物語を書いていければいいな。
ともに作品としてのグレードがあるから、立ち位置をどうするか、これを明確化。
評論というレベルになるかどうかわからないけれど、この明確化作業ですね。
現代表現研究という枠を言葉のうえで設定していて、具体化はこれから、これです。

現代表現論-3-

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一人称、二人称の関係をとらえるばらば、わたしとあなた、で共有する「何か」を解析します。
これは気持ちの交流だと思うのです、向き合う関係、恋愛関係、そういう思い合う関係です。
かならずしも肉体関係が介在していなくても、成立するプラトニックラブがあります。
愛しあう、これが恋愛関係の根底にある、ということは言えることです。
前段で、消し忘れビデオ、と書いたことから展開させます。
このビデオが撮られた場、とはどういう類のものか、を想像してほしいのです。

ラブホテルの一室で、行為するわけですが、この行為を撮影するというのです。
撮影したビデオをどうするのか、といえば行為した二人が、それを見るのです。
見るということは、どういうことか、ここが、解析するポイントです。
行為したことを振り返って、お互いが共有する、という愛の在り方のひとつでしょう。
一人称であれば、これは自慰する自分を記録する、自分撮り、自写撮り、ですね。
性の行為が表現の大きなテーマだとすれば、この関係性こそが、作品の質となる。

日本の表現状況についていえば、かって井原西鶴や浮世絵春画を描いた江戸時代。
性表現については、けっこうおおらかだったようにも思えます。
それか第二次大戦後の風俗からいっても、文学での性の扱いも、開放に向かってきました。
でも、それらは囲い込みのなかで開放されてきていて、表現として正当な評価は受けていない。
世の中がネットでつながり、通信の深化で、ますます個人情報が重視される時代です。
アートが白々しくならないためにも、人間の性を取り戻さなければならないと思うのです。



現代表現論-2-

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表現する目的、そして表現した目的は何か、誰に向けるのか。
人称的に言うならば、一人称、私自身に、二人称、あなたへ、三人称、彼彼女らに、の関係。
表現したものを誰に、といったとき、第三者に向ける、つまり三人称で、相手を特定しない。
おおむね第三者に三人称で、広く知らしめる、という目的で、報道なんかはそうですね。
それが、結果としてはそうなるとしても、あなたのために、エリゼのために、みたいな。
あなたに捧げる、みたいな、あなたにあげる、あげる対象を、特定して作品をつくる。
もらった人、それからその背後にいる大衆というか、その他の人へ、の距離です。

ぼくは体験したことありませんが、消し忘れビデオ、なんてことがありました。
この消し忘れビデオが、アダルト系のショップで販売されていた、そのようです。
今なら、ネットでプライベートビデオ、というタイトルの映像でしょうか。
この方向性が、現代の表現で有効だと思っても、それが本筋だとはいいません。
方向性としての問題、つまり作られた現場は、一人称二人称関係のなかです。
具体的にこの関係者が登場しなくても、この関係が構成できないか、と考えるのです。
一人称そのものが三人称のところへ、そこから現代は二人称のところへ、です。

時制と視点、ということを文章作品を制作する場合には、その整合性を考えます。
時制とは、過去、現在、未来、という時間空間のことです。
視点とは、立場というか、作品中にある作者の位置のことです。
文章表現においては、これらの関係をどう組み合わせて現場をつくるか、です。
写真や映像表現の場合なら、こういう概念は有効ですが、思わせのなかですね。
で、ここでいうのは、フィクションではなくて、ノンフィクション、生身のわたしとあなた。
それらが複合しながら、作者のなかで統一され、時制を乱し、視点をはぐらかす、これ。

現代表現論-1-

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表現することのテクニック、技術的な方法については、最新技術を使えばよい。
カメラ機能でいうならスマートフォンについているカメラで撮影する。
このカメラで撮った写真を、スマホのなかで加工することができます。
明るくしたり暗くしたり、反転もできる、様々な機能がついていて、加工します。
というところまできて、さて、なにを撮るか、という被写体のことを考えます。

被写体と撮影する人との関係というか、モチーフであったりテーマといわれるもの。
そのテーマを決めるときの、その枠組み、方向性、社会でテーマとなっている領域。
この社会でテーマとなる領域の枠組みを、どうとらえるかということでしょうか。
最近なら、自分のこと、自分の内面について、自分とはなにか、みたいな自分論です。
その自分論から派生するイメージを、見えるものにしていけるか否かでしょうか。

自分という生身のセクシュアルな側面を、自意識的に、どのようにとらえるか。
自分の性との向かい方、具体的には身体の性のありかた、それを自意識にとらえる。
男女の性の関係、セックスの関係、男と女の交わり、潜在化していた興味の対象です。
それが様々な側面で顕在化してきている、その顕在化のプロセスを表現が担う。
男女の性関係のありかた、表現とすれば、どういう顕在化があるのか、でしょうか。

イメージとしての画像であれば、浮世絵の春画があります、これの復活。
復活する現代版として、紙媒体の出版物、デジタル媒体のネットのなか、があります。
総称として、曖昧ながらアダルト領域のなかに、うんざりするほどありますね。
それらが現代を代表する表現物だというのではありませんが、この方向です。
性を扱う、といえばわかりやすいでしょうか、小説にしろ映像にしろ、です。

表現の彷徨-5-

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美しいモノは美しい、この桜の花は美しい、とぼくは思うのです。
美しいというイメージについて、何を持って美しいとするのか、ですね。
心がふるえる感じを受ける、そんなモノについて、美しい、と表現しようと思う。
ナマな感覚で、生きている感触、いいなぁと憧れる対象物(相手)が美しい。
現代の表現、その中心となる領域は、この「美しい」が主流ではないかと思うのです。

理や知ではなくて、たしかに「我思う故に我あり」論もいいけれど、この時代は終わりました。
いや、文学や美術や映像の表現としてのことで、理や知を否定するものでは全くなしです。
表現されるモノと作者である自分との関係、距離感というか、位置関係のことです。
ぼくの内容がまったく正しいなんて思っていませんが、ぼくはぼくの正解なのです。
プライベートな、肉体と精神、この関係からくる文章であったり画像であったり、です。
(続く)

ここから-2-

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キャノンのアルバムが昨日で終わりました。
この10年ほど、大量にアルバムに写真をアップしておりました。
昨年のジオシティーズと同様、時代の流れで、それはそれで容認します。
インスタグラムがパソコンで表示できなくなったので昨日で終えました。
ニコンのアルバムはまえに新しくなったので、現在はまだ健在です。
手元の資料も処分したから、ひとつの時代を終えて、次の時代にいきます。

フェースブックは続けます、ツイッターも続けます。
昨年末から今年にかけて、新しく開設したところですから。
作品のストックは、ライブドアのブログを中心にしていこうと思っています。
ここ、seesaaブログは三つ開設しておりますが、ここでは論を中心にします。
あとは雑記と京都表現学校のインフォーメーションブログです。
なんやかや、嘘はつかない、まじめに戯言を綴っていこうと思っています。

1946年生まれで、今年で74歳になるから、ちょっと複雑な心境です。
文章書きがいつまで続けられるのか、それがわからないから困るのです。
まだ5年ぐらいはいけるかなぁ、と思ったりしていますが、もっと短命かも。
キリがいい2020年にして、ここから、あたらしい何かを作り出していきたい。
何があたらしいのか、それを判断するのは、自分の感性です。
これからも、よろしくお導きのほど、お願いいたします。