2018年06月20日

表現の彷徨-3-

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街へ出て時間があったので久々に書店に入って雑誌コーナーを見ていた。
月刊誌のコーナー、文芸誌や総合誌のコーナー、昔を思い出しながら眺めていた。
そのなかに「これが官能小説だ」という小説特集があって、手にしてみた。
案外廉価だったし、知った名前のおなごさんの小説も載っているので買った。
ふむふむ、官能小説、最近は読んでない、小説自体を読んでない。
写真の展覧会で、極彩秘宝館に参加した経緯があるけれど、これは映像だ。
直接的な映像や静止画とちがって、文章になると、読む努力が必要だ。
このイメージ展開にぼくも興味があって、10年ほど前から文章表現を試みてきた。

文章表現のなかの小説といえば、最近は芥川賞作品を文春で読む程度だった。
ひところ、最近といっても、もう十数年前になるが、乱読したときがあった。
文芸書だけではなく科学書、哲学書、宗教書、かなり読んだところだった。
ここでいう官能小説の区分には、分かりかねていて、どう処理したらいいのか。
乱読しているなかで、フランス書院、河出文庫、幻冬舎文庫、の文庫本も乱読。
外国モノの翻訳は読まなくて、日本の明治期から現代まで、地下本を読んだ。
家風とか潤一郎とか、それだけじゃなくて、文学史的には無視された作家たち。
そうい領域の文学が、21世紀になって解禁されてきたように思えた。

官能小説と区分されるフィクションは、団鬼六とか他の作家たち、読んだ。
純文学ではなく、直木賞対象の大衆小説でもなく、官能小説の存在。
興味があって、評論の軸にしようかと思うけど、世間体ということがある。
古希を過ぎたあたりから、これは明らかにしていかないと、いけない。
そう思うようになり、匿名で手掛けてきたフィクションとか、少し明るみにした。
そういうなかで、手にした官能小説集、いま、文学では、なにが起こっているのか。
あらためて、批評の表に出してこないと、文学自体が、矮小化してしまうと思われる。
まだ、時代が追いついていない感があり、ますます区分されているけれど。



posted by shigeo at 11:38| Comment(0) | 表現の彷徨 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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