フォトハウス-4-

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 フォトハウスって名前を使いだすのは、1983年頃だと思えるんですが、この「映像情報」にその構想を載せたのが最初です。ワイマールで始まったバウハウス。ナチの弾圧で教授たちは世界に散らばり、主にアメリカにおいて継承される芸術運動としてのバウハウスです。これをもじってフォトハウス、正直に申し上げますが、ぼくのパクリです。でも、フォトハウスの構造は、2018年の今でこそ、当たり前みたいな枠組みですが、1983年当時には、けっこう夢物語みたいなことでした。もう一言加えさせてもらえるなら、フォトハウスの構想は、写真家東松照明さんとのセッションの中から生じてきた構想で、1984年に発表にあたっては、時期尚早、資本にかすめ取られるだけだから、温存しておいて、企画だけだせばいい、とのアドバイスを受けた、これ、事実です。ただし、お酒を飲み、お食事しながらの会話でしたけど。でも、その構想は発表することになります。

 映像情報という冊子は、共同で発行する冊子を、と考えていたんですが、結局、中川の個人誌というところから脱皮できませんでした。東京に佐藤元洋がいて、彼は「COPE」という個人誌を出していました。そうしたことからか彼と懇意になって、情報交換しておりました。後になって「映像情報」を見ていたというお方に巡り合えたりします。大島洋が編集長の「写真装置」が発行されるのは「映像情報」第一号から数か月遅れです。「オンザ・シーン」誌の発行は、1980年秋、ほぼ同時期ですが、知るのはその後です。フォトハウスの構想は、映像情報の記事としては具体的な組織図にまでは至っていなくて、名称だけでした。具体的な文書となるのは1984年11月のことでした。写真誌ということでいえば、1972年4月創刊の黒沼康一率いる「地平」があります。遡って東京では1968年11月創刊の「プロヴォーク」があります。中川のレベルでいえば写真ではなくて文学同人誌に参加していて「反鎮魂」第三号が1971年11月発行です。当時は同人誌、ミニコミ雑誌といわれる時代です。1980年の構図でいえば、東京で写真装置とCOPE、関西でオンザシーンと映像情報、共同発行と個人発行、という四角関係になります。

 別のところでも書いているんですが、情報誌、出版、印刷物、これを作って発行してばらまくというのは、かなりの労力がいったと思います。もちろんお金を積めば、印刷とかできます。でも現在と違って少部数発行とかいっても100部とか200部とか、それでもお金がかかります。フォトハウスは、流れ的に言うと、中川の個人的な経験によって、ほぼ手作り的な印刷物でした。いやいや、こんな話ではなくて、内容の問題です。その印刷物の中にはどのようなことが書かれ、どのようなイメージが使われたのか、ということでしょう。文学は置いておくとして写真ですが、出版媒体としてのカメラ雑誌があります。当時は「カメラ毎日」「アサヒカメラ」「日本カメラ」「フォトコンテスト」写真愛好者向けには、これらの月刊誌が書店に並んでおりました。「写真時代」とかの雑誌は、1980年代初めでしょうか、一世を風靡します。写真イメージを表現物として捉え、作品として捉える視点、というのがオリジナルプリントのムーブメントでしょうか。世の中での写真のあり方が変わってくる時です。報道や広告の新聞や雑誌に掲載する写真を撮るプロカメラマン、写真クラブの会員で写真を見せあっている人、アマチュアカメラマン、この区分が成立していた時から、その区分が崩れてくる時、1970年代から1980年代になって、プロアマという区分が、成り立たなくなったと考えます。仕事で報酬を得る写真家と売り作品をつくる作家(写真家)に区分してよいと思います。しかし、はっきりと区分できるわけではなく、カメラを持った各人のなかで、写真のあり方が混在します。






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