2018年07月31日

かって小説を読んだ

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どうしたわけか、突然にある詩句が浮かんできたのです。
「ここを過ぎて悲しみの市。」太宰が小説の冒頭に使った文章です。
どうしたことか、突然に、思いがけなく、その詩句が、呼び覚まされてきたんです。
「虚構の彷徨」ってゆう三部オムニバス作品の一番目「道化の華」の冒頭です。
確認のために、太宰治全集(筑摩書房版)の第一巻を引っ張り出してきました。
心中した女が死んで、男が生き残る、男の名前は大庭葉蔵だという僕がいます。
なんとまあ、どうしようもない悲しい気持ちを揺さぶる文章ではないか、と思う。
太宰のフアンだったといえば、キミはどういう顔をするのだろうか、正直、怖い。
太宰は39歳で死んでいるんです。
ぼくはいま72歳だから、まもなく倍ほど生きることになるんですよ。
こわい男だ、小説の神さまみたいな太宰さま、です。
二十歳の時に読んで、かれこれ半世紀が過ぎて、突然に思い出てくる詩句です。
ここを過ぎての「ここ」とは、何処のことだ、と思い出すたびにいつも思う。
悲しみの市(まち)とは、どういう市なんだろうか。
太宰の頭の中に描いたイメージは、それが、道化の華の内容なのか。
でも、いま、この小説を読まない、ぱらぱらとパラパラ漫画みたいにしてみる。
なんか滑稽で悲しみのイメージばかりが詰まった文章のような気がして、読めない。
死ぬかもしれないと思っていたとき、キューブラ・ロスの「死ぬ瞬間」を開けてすぐ閉じた。
その時の感覚なのかもしれないな、ゾッとする戦慄に襲われ、クレバスが開いたからだ。
道化の華は昭和10年「日本浪曼派」に発表された、とあります。
紆余曲折、書きなおされ、この全集に収録された形になっているのか。

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2018年07月16日

表現の彷徨-4-小説のはなし

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事実は小説より奇なり、なんて言葉があったけど、やっぱり小説の方が奇妙ですよ。
想像力にまかせて、小説が書かれる、フィクション、作り物、です。
とはいっても、ひと頃、私小説っていうのは、起こったことを克明に書く、という。
究極、そこま描くことを限定してしまうと、小説のために現実をつくる、ことになります。
小説は、フィクションで、作り話で、現実にありそうで、あってはならない現実を描く。
それに基づいて描かれる小説の世界は、現実に起これば、犯罪領域になる事象が描かれる。
犯罪っていうのは、言い過ぎだけど、それは人間の欲望の証しなのかも知れません。

人殺しは犯罪ですが、人殺しをする小説がありますね。
ドストエフスキーでしたか、罪と罰でしたか、老婆殺しだったと記憶しています。
そればかりではなくて、非道なことが小説の世界では、行われます。
どういうことなのか、文学の領域で、セックスの扱いもあるじゃないですか。
官能文学とか、現在的には、そういうジャンルがあって、そこで様々な行為が行われる。
人間の隠れた癖的なこと、些細なことだけど、セックスに関わること。
生きること、子孫を残す本能、これなんだと思うけど、隠されていますね。

時代と共に、開放されてきた性の話題です。
まだまだ、おおっぴらに話ができる環境には、なっていないとは思いますが。
モラリストの日本は、世界の潮流から、遅れ遅れで解放されてきたところです。
いつまた封鎖されるかわからない神国日本ですが、神の国こそエロスなイメージです。
文学も、映像も、この領域を排除したところで、成立させようとされていますが。
それは、本来的な意味からいっても、越えなければいけないハードルだと思います。
アダルト領域の表現は、もっと正当に扱われるべきものではないかと、思っています。


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2018年06月20日

表現の彷徨-3-

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街へ出て時間があったので久々に書店に入って雑誌コーナーを見ていた。
月刊誌のコーナー、文芸誌や総合誌のコーナー、昔を思い出しながら眺めていた。
そのなかに「これが官能小説だ」という小説特集があって、手にしてみた。
案外廉価だったし、知った名前のおなごさんの小説も載っているので買った。
ふむふむ、官能小説、最近は読んでない、小説自体を読んでない。
写真の展覧会で、極彩秘宝館に参加した経緯があるけれど、これは映像だ。
直接的な映像や静止画とちがって、文章になると、読む努力が必要だ。
このイメージ展開にぼくも興味があって、10年ほど前から文章表現を試みてきた。

文章表現のなかの小説といえば、最近は芥川賞作品を文春で読む程度だった。
ひところ、最近といっても、もう十数年前になるが、乱読したときがあった。
文芸書だけではなく科学書、哲学書、宗教書、かなり読んだところだった。
ここでいう官能小説の区分には、分かりかねていて、どう処理したらいいのか。
乱読しているなかで、フランス書院、河出文庫、幻冬舎文庫、の文庫本も乱読。
外国モノの翻訳は読まなくて、日本の明治期から現代まで、地下本を読んだ。
家風とか潤一郎とか、それだけじゃなくて、文学史的には無視された作家たち。
そうい領域の文学が、21世紀になって解禁されてきたように思えた。

官能小説と区分されるフィクションは、団鬼六とか他の作家たち、読んだ。
純文学ではなく、直木賞対象の大衆小説でもなく、官能小説の存在。
興味があって、評論の軸にしようかと思うけど、世間体ということがある。
古希を過ぎたあたりから、これは明らかにしていかないと、いけない。
そう思うようになり、匿名で手掛けてきたフィクションとか、少し明るみにした。
そういうなかで、手にした官能小説集、いま、文学では、なにが起こっているのか。
あらためて、批評の表に出してこないと、文学自体が、矮小化してしまうと思われる。
まだ、時代が追いついていない感があり、ますます区分されているけれど。



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2018年05月12日

表現の彷徨-2-

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 1968年といえば、いまから半世紀前になりますが、ぼくが大学に入学できた年が、この1968年、昭和43年でした。入学できた学部は文学部で、日本近代文学をまなびたいと思って、入学することになりました。この当時は、大学紛争真っ只中の様相で、ぼくが通うようになった大学では、比較的顕著ではなかったものの、いくつかのセクトに属する活動家がいたようでした。ぼくはノンポリではありませんでした。地域では共産党の人が活動されていたし、歌声運動が高校生の間にも展開されていて、知らず知らずのうちに、政治的感覚に敏感になっていたように思います。1968年の春じゃなかったかと記憶しているんですが、フランスで学生の大きなデモが起こっていて、体制に反対、当時はドゴール大統領でしたが、それへの反対、革命とされる事態に至っていることを、新聞記事で読んでいました。

 文学に興味を持ちだして、小説を書きたいと思いだして、大学に入ったら本格的に作家へのトレーニングをしようと思っていました。そのとおりにしたくって、かなりがんばろうと思って、よなよな小説を書きだしていました。高校を卒業してストレートに大学生になっておれば、1968年には大学四回生で、卒業に直面していた年齢です。ぼくは三年遅れで大学生になったから、そのときは一回生でした。大学に入ると、高校の時には後輩だった女子が、先輩になっていて、学友会へ誘ってくれました。その当時、自分の態度は明確にしていなかったけれど、心情三派といわれていると思いますが、反民生のほうに傾いていて、ノンセクトでした。多分にもれず、ぼくの通う大学も学館封鎖があり、バリケードが築かれ、目に見えて活動の拠点が築かれていました。

 文学、近代小説、当時の現代小説、作家といえば高橋和巳氏、真継伸彦氏でしたか、京都大学を卒業で関西、京都に拠点を置く作家の小説を読みました。開高健氏、大江健三郎氏、倉橋由美子氏、まあ、太宰治の小説なんて、話題には出せませんでした。坂口安吾、織田作之助、太宰治、読みましたよ、読みましたけど、無頼派、あまり批評のなかには入ってこなかった。この時代に若者だった文学青年には共通の話題といえば、学生運動があったし、参加するのかしないのか、こういう議論は、参加するという方に流れていきます。ぼくは、セクトには属さなかったけれど、日本の革命は、一段階革命論の方を支持し、必然的に当時の路線に至っていた共産党は支持しない立場でした。1969年の春に東京は本郷にある出版社に就職して、その年の10.21まで勤めておりました。激動の時代、学生運動の時代、大学紛争の時代を、体験した、と言えると思います。

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2018年04月20日

表現の彷徨-1-

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 表現という範疇で、芸術表現を取り上げてみますが、そもそもの表現とは何か、そうして芸術表現とは何か、という定義というか意味づけにまで降りた話をしておかないと、芸術表現というイメージが、個別ばらばらになってしまうのかも知れません。とはいっても、ここでは芸術表現としての画像イメージ、文字イメージ、音声イメージ、見る、読む、聞く、の三つの分野について、その基底を成す描かれる領域について考えようと思うのです。方向としては、社会制度のなかの性的表現について、ということになろうかと考えます。政治的表現であれ、個人的表現であれ、表現を表現として受け入れる社会システムがあって、これは時代によって枠組みが変容するから、その変容によって表現の範囲が決められてきます。この表現の範囲とは、社会制度を崩壊させない思考の範囲ということになります。

 表現の自由ということが、様々に語られています。自由とはなんでも好きなことができる、というのが基本イメージですが、このとき表現の自由とはいっても、この自由は制度を崩さない限りということです。制度を崩すとは、極端にいえば体制を崩す、ということであり、体制を崩すべく方向を示す表現物の表出、ということになるかと思います。真の表現者とは、なんて、今の時代になんのこっちゃ、と言われそう、真とか偽とか、そんな区分なんてありえない、真とか偽とか、なにを基準にそんなことを言うのか、ということ。まあ、二者択一ではなくて、真から偽までのシームレスな枠組みと考えればいいかと思うし、真とは何、偽とは何、と話を拡大していかないといけないし。まあ、結論的にいえば、真の表現者とは、体制を変容させる要素を持った表現物を提示できる者、ということでしょうか。ここでは、かなり曖昧に、概念として、真の表現者像をイメージしております。

 表現の領域についていえば、性的表現というイメージで語られる領域があります。根本には、人間の、ヒトとしての本能に由来する領域だと思えるから、表現史を紐解けば、その原点には性的表現の情を含んでいるのではないですか。表現の対象を、対人関係において描かれる時、そこには男と女という関係が描かれてきます。日本文学でいえば、源氏物語は、男と女の恋物語といえばいいですね。言葉で書かれ、絵として描かれてきます。一気に江戸時代にきて、浮世絵の春画なんて、文字と絵ですが、リアルな絵、リアルとはいっても筆と絵の具が原版で、そこから版がつくられ版画になるプロセスです。この描かれるものが、男と女の出来事、という成人であれば情が動かされる対象になります。言葉でこうしてここに書くより、イメージを提示すれば、それで全てがわかる、とでもいえそうなことなのですが、ここに展示するには憚られることです。
(続く)
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