表現の彷徨-5-

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美しいモノは美しい、この桜の花は美しい、とぼくは思うのです。
美しいというイメージについて、何を持って美しいとするのか、ですね。
心がふるえる感じを受ける、そんなモノについて、美しい、と表現しようと思う。
ナマな感覚で、生きている感触、いいなぁと憧れる対象物(相手)が美しい。
現代の表現、その中心となる領域は、この「美しい」が主流ではないかと思うのです。

理や知ではなくて、たしかに「我思う故に我あり」論もいいけれど、この時代は終わりました。
いや、文学や美術や映像の表現としてのことで、理や知を否定するものでは全くなしです。
表現されるモノと作者である自分との関係、距離感というか、位置関係のことです。
ぼくの内容がまったく正しいなんて思っていませんが、ぼくはぼくの正解なのです。
プライベートな、肉体と精神、この関係からくる文章であったり画像であったり、です。
(続く)

荘厳ミサ曲

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先ほどFBで、誰かが第九の演奏会は沢山あるのに、荘厳ミサ曲の演奏会は余りないと書いていた。
ぼくはコンサートホールでの演奏会に行くことは少ないけれど、聴くのはもっぱらパソコンです。
ステレオ装置で、レコードで聴いた、後年にはCDで聴いた、最近ではパソコンで聴きます。
ええ、荘厳ミサ曲は、厳かな気分になれる気がして、祈る気持ちで聴きます。
いいえ、聴いていると祈りたくなる、心が泣けてくる、生きてることが浄化される感じです。
宗教の領域といえばいいのか、芸術表現の場所として、そういう荘厳な場所にふさわしい。

万葉の時代、防人が詠む句には、恋人を想う気持ちを込めた句が多いといわれています。
人を恋する気持ちというのが、表現の原点になるのかも知れない、原風景かもしれない。
荘厳ミサ曲の詩句の意味は、ぼくにはわからないけれど、旋律が胸を打ってきます。
第九の合唱にも通じるのだと思うけれど、宗教儀礼に視覚聴覚が包まれると、感動です。
いやはや、感動する枠組みが宗教儀礼なのかも知れない、とすると究極表現は此処かなぁ。
なんかわけわからなくなってきていて、感じること、これに言葉をつけることが無理なのか。

なにもそんなに難しく考えなくてもいいのかも知れませんね。
言葉で連ねる時代は終わって、いまや感覚で感じる、空気の振動を身体で感じる。
けっこう直接的なところで感じていくのが、現代なのかも知れない。
ということは現代の表現は、感覚が前面で、言葉なんかで紡げない、こういう方法もある。
静謐に感じさせられるか、色艶に感じさせられるか、対極の二つが、表現の根底ですかね。
静謐な神と色艶なエロスを、両方は無理で、どちらかを表に現わす、それで対極を感じさせる。

現代表現研究の枠で-1-

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写真をめぐる話をしてみようと思うのですが、久しぶりに、その気になってきています。というのも昨夜から今朝にかけて、インターメディウムインスティチュート(IMI)を修了したメンバーから、メッセンジャーで案内が届いたのです。秋丸さんが執筆された本が、アマゾンに出ているというのか、その著書の案内をいただいたのです。ぼくは、アマゾンの会員になっていなくて、最近にはアマゾンのアカウント云々とのメッセージが来ていて、たぶん迷惑メールだろうと思って、無視していたから、アマゾンへは行けないな、と思って購読を残念しました。

それとは別に勝又さんが、タカザワケンジさんディレクターのIGフォトギャラリーで展覧会をする、という案内がありました。勝又さんのいもうとさんがお亡くなりになった、というところからの奥深い話を、朝一番に読んでしまって、ぼく自身かなりショックを受けたのです。ショックとしか言いようがなくて、それ以上の言葉が紡げないところです。現代表現の先端を行ってる、とかねがねから思っている勝又さんの作品で、非常にプライベートな部分での作品展開になる感じで、そういうことでいうと、まさに現代表現、そのものだと思うのです。

写真作品の内容や構成や枠組み全体のことを考察していかないといけないところですが、いまは、外観だけを見ています。載せた写真は、このまえ豊中のギャラリー176で、金村修さんの写真展があったときのトークで、ここに勝又さん、金村さん、小松さんがいらっしゃったのです。このギャラリー176の運営オーナーは友長さんでIMIを修了されたメンバーです。枠組みとしては、IMIがかなり底流になっている気がしてきます。あれらから20年近くの年月が過ぎていて、それぞれのメンバーがアートシーンの潮流を創りつつあるあると思うのです。その流れ+でタカザワさんとか金村さんとか小松さんなどが、現代のアートシーン、フォトシーンを創ってきている感触なのです。

かって小説を読んだ

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どうしたわけか、突然にある詩句が浮かんできたのです。
「ここを過ぎて悲しみの市。」太宰が小説の冒頭に使った文章です。
どうしたことか、突然に、思いがけなく、その詩句が、呼び覚まされてきたんです。
「虚構の彷徨」ってゆう三部オムニバス作品の一番目「道化の華」の冒頭です。
確認のために、太宰治全集(筑摩書房版)の第一巻を引っ張り出してきました。
心中した女が死んで、男が生き残る、男の名前は大庭葉蔵だという僕がいます。
なんとまあ、どうしようもない悲しい気持ちを揺さぶる文章ではないか、と思う。
太宰のフアンだったといえば、キミはどういう顔をするのだろうか、正直、怖い。
太宰は39歳で死んでいるんです。
ぼくはいま72歳だから、まもなく倍ほど生きることになるんですよ。
こわい男だ、小説の神さまみたいな太宰さま、です。
二十歳の時に読んで、かれこれ半世紀が過ぎて、突然に思い出てくる詩句です。
ここを過ぎての「ここ」とは、何処のことだ、と思い出すたびにいつも思う。
悲しみの市(まち)とは、どういう市なんだろうか。
太宰の頭の中に描いたイメージは、それが、道化の華の内容なのか。
でも、いま、この小説を読まない、ぱらぱらとパラパラ漫画みたいにしてみる。
なんか滑稽で悲しみのイメージばかりが詰まった文章のような気がして、読めない。
死ぬかもしれないと思っていたとき、キューブラ・ロスの「死ぬ瞬間」を開けてすぐ閉じた。
その時の感覚なのかもしれないな、ゾッとする戦慄に襲われ、クレバスが開いたからだ。
道化の華は昭和10年「日本浪曼派」に発表された、とあります。
紆余曲折、書きなおされ、この全集に収録された形になっているのか。

表現の彷徨-4-小説のはなし

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事実は小説より奇なり、なんて言葉があったけど、やっぱり小説の方が奇妙ですよ。
想像力にまかせて、小説が書かれる、フィクション、作り物、です。
とはいっても、ひと頃、私小説っていうのは、起こったことを克明に書く、という。
究極、そこま描くことを限定してしまうと、小説のために現実をつくる、ことになります。
小説は、フィクションで、作り話で、現実にありそうで、あってはならない現実を描く。
それに基づいて描かれる小説の世界は、現実に起これば、犯罪領域になる事象が描かれる。
犯罪っていうのは、言い過ぎだけど、それは人間の欲望の証しなのかも知れません。

人殺しは犯罪ですが、人殺しをする小説がありますね。
ドストエフスキーでしたか、罪と罰でしたか、老婆殺しだったと記憶しています。
そればかりではなくて、非道なことが小説の世界では、行われます。
どういうことなのか、文学の領域で、セックスの扱いもあるじゃないですか。
官能文学とか、現在的には、そういうジャンルがあって、そこで様々な行為が行われる。
人間の隠れた癖的なこと、些細なことだけど、セックスに関わること。
生きること、子孫を残す本能、これなんだと思うけど、隠されていますね。

時代と共に、開放されてきた性の話題です。
まだまだ、おおっぴらに話ができる環境には、なっていないとは思いますが。
モラリストの日本は、世界の潮流から、遅れ遅れで解放されてきたところです。
いつまた封鎖されるかわからない神国日本ですが、神の国こそエロスなイメージです。
文学も、映像も、この領域を排除したところで、成立させようとされていますが。
それは、本来的な意味からいっても、越えなければいけないハードルだと思います。
アダルト領域の表現は、もっと正当に扱われるべきものではないかと、思っています。


表現の彷徨-3-

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街へ出て時間があったので久々に書店に入って雑誌コーナーを見ていた。
月刊誌のコーナー、文芸誌や総合誌のコーナー、昔を思い出しながら眺めていた。
そのなかに「これが官能小説だ」という小説特集があって、手にしてみた。
案外廉価だったし、知った名前のおなごさんの小説も載っているので買った。
ふむふむ、官能小説、最近は読んでない、小説自体を読んでない。
写真の展覧会で、極彩秘宝館に参加した経緯があるけれど、これは映像だ。
直接的な映像や静止画とちがって、文章になると、読む努力が必要だ。
このイメージ展開にぼくも興味があって、10年ほど前から文章表現を試みてきた。

文章表現のなかの小説といえば、最近は芥川賞作品を文春で読む程度だった。
ひところ、最近といっても、もう十数年前になるが、乱読したときがあった。
文芸書だけではなく科学書、哲学書、宗教書、かなり読んだところだった。
ここでいう官能小説の区分には、分かりかねていて、どう処理したらいいのか。
乱読しているなかで、フランス書院、河出文庫、幻冬舎文庫、の文庫本も乱読。
外国モノの翻訳は読まなくて、日本の明治期から現代まで、地下本を読んだ。
家風とか潤一郎とか、それだけじゃなくて、文学史的には無視された作家たち。
そうい領域の文学が、21世紀になって解禁されてきたように思えた。

官能小説と区分されるフィクションは、団鬼六とか他の作家たち、読んだ。
純文学ではなく、直木賞対象の大衆小説でもなく、官能小説の存在。
興味があって、評論の軸にしようかと思うけど、世間体ということがある。
古希を過ぎたあたりから、これは明らかにしていかないと、いけない。
そう思うようになり、匿名で手掛けてきたフィクションとか、少し明るみにした。
そういうなかで、手にした官能小説集、いま、文学では、なにが起こっているのか。
あらためて、批評の表に出してこないと、文学自体が、矮小化してしまうと思われる。
まだ、時代が追いついていない感があり、ますます区分されているけれど。