これから-14-

歳をとっても食べ物はスタミナがつく奴を食べることが多いです。
世間常識では、歳をとると干乾びてしまうイメージで、食も細るイメージです。
たしかにそのいう傾向はあるものの、決して、食欲がなくなるわけではありません。
人によるのだと思うけれど、ぼくの場合は、食欲旺盛です。
生きる力は備わっているようで、精神は病んでも、肉体は健康なところです。

意欲といえば制作意欲、これはまだまだ衰えなくて、ますます旺盛です。
これは気持ちのレベルで旺盛なのですが、肉体的にはそれほど無理はできません。
写真を撮るとき、ぼくなんか歩いて撮影するタイプですが、体力の衰えを感じます。
そのぶん精神的なひろがりというか、イマージネーションは拡散していく感じです。
想像力によってフェクションするんですが、でも、体力がないから、無念です。

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これから-13-

まだまだ世の中、コロナ騒動一色です。
第二波が来る、そのための準備を、と呼びかけています。
ぼくはぼくなりに自粛して、感染しあいように、注意する。
世界の、国家の枠組みが変わらないまでも、中身が変わっていくでしょう。
ぼくには関係ないとは全く思っていなくて、それなりに関心事です。
でも、そのことを語っても、むなしいから、あまり語らないようにしています。

心が剥き出しになって、この心を支える社会の制度が、機能しなくなる。
家族であったり、友達であったり、心を支え合う器が、白々しく思えるのでは。
個人が内面目覚めてきたけれど、それがこれまでの器にはまらないのではないか。
新しい枠組みというか、器が必要で、この器が未成熟なんではないか、と思う。
若いひとが、これまでの言葉でいえば、心を病む状況になっている。
この病むを、そうせはない言葉に言い換える、そういう作業も必要かと思う。

なにができるのかわからないけど、その器作りをしたいと思っているところです。

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これから-12-

久しぶりに<これから>のタイトルで記事を書きます。
ちょうどコロナウイルスで世界が組み変わるこれからです。
自分にとって、そんなに身のまわりが変わるわけではありません。
日常の生活については、マスクをするとか、従順にしたがいます。
もんだいは、自分の生き方の今後、このあと、どうするか、ということ。

作品をつくる、この気力とそれを支える体力の問題です。
できることしかできなくて、思うことしか書けなくて、悠々自適です。
身の回りは、だいぶん整理できて、本が無くなり写真の道具も無くなります。
あとは、好きなことを好きなように言っていけばよい、とはいうもののです。
やりたいこと、やっていることを、表とリンクできないから、困っているのです。

写真は、あいかわらずスナップ手法で、最近は人がいない風景を撮っている。
けれども別のバージョンでは、ネットからダウンロードで使っているところです。
文章は、オリジナルですけど、別名で別の枠でブログとホームページをリンクです。
分離した自分がいて、それを表裏一体のモノとして、いまのところ扱っていません。
扱えないままに年月が過ぎていて、今後どうするのか、ここが悩みどころなのです。

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これから-11-

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だいぶん身の回りの整理が進んだとおもっていますが、まだまだ残滓がこびりついています。
裸の聖徳太子像ではないですが、衣装を脱ぎ捨ててしまって、そこから何が産まれるか。
これも妄想のうちになるんだと思いますが、天から授かった宇宙観というところか。
いまは、ベートーベンのピアノソナタ、晩年頃の音を聴いていますが、すごい。
音は抽象だから、それの連なりで人の心を揺さぶりますね、としたら文字はどうなのか。
文字の連なりは理解を伴わなければならないから、音の羅列とは、ちょっとちがうなぁ。

あえて分けるとしたら、官能小説ってジャンルがあるじゃないですか。
これは読ませて、性的に興奮させて、理想はエクスタシーに至らしめること。
オーガズムといえばいいのか、アクメといえばいいのか、至福の領域へ導く。
このような言葉の連なりを創造したいと思うのですが、どうしたら実現するのか。
現代未来文学の課題ではなかろうかと思うところで、リアルロマン小説のことです。
昔、温泉場で頒布されていたガリ版刷りの物語、これの再来を求めています。

1955年に書かれたというサンドラール「世界の果てまで連れてって」生田耕作訳。
気になりながら、手元にあるのに、読んでいなかった、これは小説なのでしょうか。
ほかすまえに読んでみようかと、いま手元にとりだしています。
なんともはや、禁断のエロスの華が・・・・と帯には書かれている書ですが。
それとかって読んだ「湖の伝説-画家・三橋節子の愛と死-」これも再読ですかね。
捨てるとなって愛着がわいてくる本のタイトルです。

これから-10-

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<死後の世界について、この世について>
ぼくは基本的に死ぬことは肉体の滅亡で、同時に魂も滅亡する、と思っています。
このことを明確にしておかないと、ぼくが死後の世界があると思われたらイケナイから。
冥途や黄泉の国やあの世や天国とか、宗教や哲学の領域で空想の世界を論じますけど。
そういう死後の世界のことを思想史的にあることを想像力の中で想いを馳せますが。
御霊とか精霊とか、生きているうちには、あると思うことで安定する気がします。

唯物論というのでしょうか、青年の頃に、肉体滅べば魂滅ぶ、といわれているから。
それは生前の思いであって、それに歴史とか、枠組みをつくって、自分を安定させる。
さて、作家しようと公言しているけれど、作品の根拠は、モチーフはどうするのか。
空想力を見えるようにする、難しいけど、そういうことでしょう、作品とは。
写真をつくろうと思っています、それに文章でフィクションもつくろうと思います。

手元に書籍のタイトルでも見えるようにしておけば、論が立てられる、と思っていました。
でも、それを無くしてしまっても、これまでの経験から、なにか産めるのではないか。
そのようにも思って、家族が身の回りを処理しろというので、することにしたところです。
生きていて、からだの機能が衰えてきて、想像力が大きく膨れ上がる、そういうところです。
作家をする、生のための考察みたいな視点で、セックスをとらえられたらいいな、と思います。

これから-9-

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<表現のテーマとしての内面>
なにやら由緒あるハヤシライスだということを聞いて、食べたいと思って、食べました。
今日のテーマは、食べ物の話ではなくて、表現する中身の話です。
写真に撮ったハヤシライスの中身は、いろいろな材料が煮込まれていて、美味です。
表現の中身も、これに似せていうと、いろいろな素材が混在していて、感動する。
この感動するべきものの「質」というか「内容」そのことの話です。

「内面」という言葉があります。
風景の発見、内面の発見、告白という制度、病という意味、、、、、。
柄谷行人さんは「日本近代文学の起源」の章立てとしてこのように展開します。
これは近代という枠組みで、現代ではありませんが、ここの内面の発見です。
ぼくは写真表現という枠で、考えているんですが、漸く「内面の発見」にまで来た。

これ、写真表現の、現代表現の核になるテーマではないかと思います。
これを具体的な作者を引き合いにだして、評価を定めていかないといけませんね。
イメージとしてこのことに取り組んでいる写真作家がいるように思えます。
いや、思考が内面に向かっていて、自分の内面表現として外在するものを定着する。
坂東さん、渕上くん、ほかには台湾のセリフイー作家、ぼくが昨年に見聞した作家です。
文学では近代に組み入れられますが、写真では現代ですね、漸く始まったところです。
(続く)