ここから-6-

_20200512_151630 (1).JPG
今年はじめからコロナウイルスにほんろうされ、もう5月半ばになってしまいました。
京都表現学校も活動休止状態で、このまま消えていきそうな気配も漂います。
まあ、もとから金をまわすシステムではないから、気持ちの問題だけですが。
金がまわらないと人もまわらない、そこから脱却して、金がなくても人がまわるように。
学びの枠を、お金を使わないで、作っていこうとしているけど、虚しいですね。

ブックカバーチャレンジという企画がまわってきて、いろいろ勉強になりました。
たまたま、自分が若かったころの本が手元に残っていたので、ここから七冊選びました。
文学系で、影響を受けたと思っている先輩の小説とか評論でした。
自分の人生が始まるころで、人生をやってきて、いま人生を終わるとこまで来ています。
自分が影響を与える、なんてことももうないなぁ、と思っているから、好きなことをする。

小説を書きたいと思って、それなりに練習していた20半ばまでのことを思いだします。
15年ほど前からぼちぼちと、ペンネームで小説を書き始めて、相当な量になっています。
全てネット上で読めるようにしているところですが、自分が管理しています。
管理できなくなった時点で、それは終了して、消滅する、そういう運命ですね。
それでいい、生きているうちの自慰行為だから、終わるときには終わる、です。


ここから-5-

_20200511_135915.JPG
今年は新型コロナウイルスの蔓延で、世界中があたふたしています。
大きな世界のことをとやかく言っても虚しいから、自分に即して書きます。
日々、外出を自粛しているところで、友だちとも会わないでいます。
ZOOMを使って、ネットでやりとりする、というのもやる気がないです。

ネット環境も、ネットで学習できるとか、そういう時代になってきています。
ぼくなんかは、年代のわりにはネットを使っている輩ですが、もういいか。
やっぱり、現実に、ひとと会って、話を交わし、交流するのが、いいと思う。
これは、経験のなかで、それに慣れているからで、そういう年代なのです。

これから表現したものを発表する場も、ネットへ移行していくとは思います。
でも、やっぱり、現実は今のところ、ギャラリーであり、出版物が優勢です。
価値観という処で、これまであったツールに軍配があがる、というところです。
でも、5Gになって、通信量が膨大でも可能になっていくから、環境が変わる。

バーチャル美術館とかバーチャル出版物とか、それが当たり前になってくる。
そうすると、自宅、自室、自分の端末機で、鑑賞することが当たり前になる。
写真や映像なんかはデジタルで作る時代で、見る場もデジタルでいい、最良です。
時代というもの、こうして変化してきて、全体が変わっていくものですね。

ここから-4-

_20200503_132657.JPG
新型コロナウイルスが蔓延して、日本では緊急事態宣言が発出され、昨日、5月末まで延長されることにになりました。今年は世界が、このコロナにほんろうされている感じで、社会の構造が大きく変わっていく感があります。どのように変わっていくのか、これを予測していくのが評論家ということになりますが、数値を示して論証していくレベルのことは、ぼくにはできないから、ざっくり感覚論でしか話ができません。この百年ほどで作りあがってきた社会のインフラがあると思うのです。ロボットなんか際立っているとも思えます。あらためてロボットと生身の人間との相関関係が、どうなるのか、このあたりにぼくは興味あります。

ぼくの感覚では、生身の男が生身の女を愛する、この逆、女が男を愛する、近年では男と男、女と女、といった愛しあう関係も公然と語れるようになったと感じています。上品下品という一般的なイメージでいえば、この下品の領域が表に出てくるのではないか、と予測しています。ただこの領域を封じ込めようとする勢力と、解放しようとする勢力があって、徐々に後者の方が拡大してきて、表ざたになってくると思えます。それから、現実の世界と、ネットの中にあるバーチャルな世界、この二分化されている世界が、融合してくると思うのです。無意識に融合していく感覚が醸成されるんじゃないか、と思うのです。

生身の現実しかなかった時代から、バーチャルな仮想現実とが、共存する時代になっていると思います。まだたかだか四半世紀ほどしか時間経過していませんが、ますます、現在、仮想空間と呼んでいる空間が、生身の現実空間と合わさってきて、人間の関係自体を変えてくる気がします。生殖のレベルでいえば、男と女の出来事が、生身の世界では生身でしかできなかったことが、医療の進歩とかも含め、バーチャル恋愛で、接合ないままに子孫を残す、なんてことも可能になる時代が到来しているんじゃないか。21世紀まだ20年が経過して、こののち80年が過ぎて22世紀になるころ、生身でセックスしなくても、医療的に可能になり、子育てのモラルも変化していくのかも知れません。家族のイメージが変わる。



現代表現論-4-

IMG_20200429_091539_122.jpg
表現論と題した写真のシリーズを始めて半月ほどになりました。
この写真制作の試みは、技術的なことで、現代最前線ツールを使って、静止画、写真制作する。
内容は、つまりテーマは、といえば内面のことではなくて、外の枠を駆使したらどうなるか。
具体的にいうと、スマートフォンを使っています、機種はSONYのエクスペリアです。
基本的にネット展開で、SNSのひとつ、インスタグラムに掲載する。
撮影には実写ですから、現実に目に見えるものが写っていて、これを改ざんする。

スマホのカメラ機能には、いろいろな機能がついていて、アプリは内臓のカメラ機能だけです。
カメラ機能で加工した静止画を、インスタグラムの機能で改ざんし、フェースブックに掲載です。
最近でしょうか、インスタグラムがフェースブックと運営が一緒になったのか、と思います。
パソコンでインスタグラムが開けられなくて、スマホだけでの展開になります。
フェースブックはパソコンでも見られるから、パソコンで確認しています。
どんな試みができて、そんなふうになるのか、試行錯誤で、イメージを作っています。

撮影の現場ですが、人工のものが重なった風景、街の風景、それに半世紀前にはなかったモノ。
ぼく自身が二十歳だったころには存在しなかったモノが、いまは当たり前の風景となっている感。
そういうモノを静止画のなかに取り込む、主にメインイメージとしてです。
5年ほど前に「風景論シリーズ」をやっていたんですが、これの応用版ということです。
別にツイッターでも、別のバージョンで、試みをしているので、これはまた、書きます。
AI化する自分の外世界を、どう見つめていくのか、現代のテーマとしては、ここです。

ここから-3-

_20200425_130902.JPG
新型コロナウイルスの蔓延で、世の中が大きく変わっていく気がします。
世界経済がどんな構造に変化していくのか、一層のグローバル化が進むのかも。
それとも、もっとフラットな、貧富の差があまりないようは構造になていくのか。
こんな大きな話を、ここでしても、いまさら、どうにかなるわけでもないです。
ぼくなんか小市民的な、一生活者にしかすぎないから、大海に浮かぶ笹舟です。
だから、もっと自分に即した、生きていてよかったなぁ、と思えるようになる。

明日、結婚記念日で、50年を迎える、とともにぼくの誕生日、満74歳になる。
まだこの先10年ある、と思う気持ちと、そんなにないと思う気持ちが入り乱れです。
もう一仕事、なんて思う気持ちと、もうここまでだよ、と思う気持と入り乱れです。
でも、もう、今年に入って、もうここまでだな、という気持ちが強くなりました。
ここから、なにを、どのように、展開していけばいいのか、それを思案しています。
基本的には、自分の方法で、自分の満足を優先して、気持ちに即していこう、です。

どちらかといえば、自分の作品創りの方に重点を置いていく、いつまでも現役。
組織化していく方向は、もう追随する側にまわればいいか、と思うところです。
静止画である写真制作と、フィクションとしての物語を書いていければいいな。
ともに作品としてのグレードがあるから、立ち位置をどうするか、これを明確化。
評論というレベルになるかどうかわからないけれど、この明確化作業ですね。
現代表現研究という枠を言葉のうえで設定していて、具体化はこれから、これです。

現代表現論-3-

_20200414_131125.JPG
一人称、二人称の関係をとらえるばらば、わたしとあなた、で共有する「何か」を解析します。
これは気持ちの交流だと思うのです、向き合う関係、恋愛関係、そういう思い合う関係です。
かならずしも肉体関係が介在していなくても、成立するプラトニックラブがあります。
愛しあう、これが恋愛関係の根底にある、ということは言えることです。
前段で、消し忘れビデオ、と書いたことから展開させます。
このビデオが撮られた場、とはどういう類のものか、を想像してほしいのです。

ラブホテルの一室で、行為するわけですが、この行為を撮影するというのです。
撮影したビデオをどうするのか、といえば行為した二人が、それを見るのです。
見るということは、どういうことか、ここが、解析するポイントです。
行為したことを振り返って、お互いが共有する、という愛の在り方のひとつでしょう。
一人称であれば、これは自慰する自分を記録する、自分撮り、自写撮り、ですね。
性の行為が表現の大きなテーマだとすれば、この関係性こそが、作品の質となる。

日本の表現状況についていえば、かって井原西鶴や浮世絵春画を描いた江戸時代。
性表現については、けっこうおおらかだったようにも思えます。
それか第二次大戦後の風俗からいっても、文学での性の扱いも、開放に向かってきました。
でも、それらは囲い込みのなかで開放されてきていて、表現として正当な評価は受けていない。
世の中がネットでつながり、通信の深化で、ますます個人情報が重視される時代です。
アートが白々しくならないためにも、人間の性を取り戻さなければならないと思うのです。