現代表現論-2-

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表現する目的、そして表現した目的は何か、誰に向けるのか。
人称的に言うならば、一人称、私自身に、二人称、あなたへ、三人称、彼彼女らに、の関係。
表現したものを誰に、といったとき、第三者に向ける、つまり三人称で、相手を特定しない。
おおむね第三者に三人称で、広く知らしめる、という目的で、報道なんかはそうですね。
それが、結果としてはそうなるとしても、あなたのために、エリゼのために、みたいな。
あなたに捧げる、みたいな、あなたにあげる、あげる対象を、特定して作品をつくる。
もらった人、それからその背後にいる大衆というか、その他の人へ、の距離です。

ぼくは体験したことありませんが、消し忘れビデオ、なんてことがありました。
この消し忘れビデオが、アダルト系のショップで販売されていた、そのようです。
今なら、ネットでプライベートビデオ、というタイトルの映像でしょうか。
この方向性が、現代の表現で有効だと思っても、それが本筋だとはいいません。
方向性としての問題、つまり作られた現場は、一人称二人称関係のなかです。
具体的にこの関係者が登場しなくても、この関係が構成できないか、と考えるのです。
一人称そのものが三人称のところへ、そこから現代は二人称のところへ、です。

時制と視点、ということを文章作品を制作する場合には、その整合性を考えます。
時制とは、過去、現在、未来、という時間空間のことです。
視点とは、立場というか、作品中にある作者の位置のことです。
文章表現においては、これらの関係をどう組み合わせて現場をつくるか、です。
写真や映像表現の場合なら、こういう概念は有効ですが、思わせのなかですね。
で、ここでいうのは、フィクションではなくて、ノンフィクション、生身のわたしとあなた。
それらが複合しながら、作者のなかで統一され、時制を乱し、視点をはぐらかす、これ。

現代表現論-1-

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表現することのテクニック、技術的な方法については、最新技術を使えばよい。
カメラ機能でいうならスマートフォンについているカメラで撮影する。
このカメラで撮った写真を、スマホのなかで加工することができます。
明るくしたり暗くしたり、反転もできる、様々な機能がついていて、加工します。
というところまできて、さて、なにを撮るか、という被写体のことを考えます。

被写体と撮影する人との関係というか、モチーフであったりテーマといわれるもの。
そのテーマを決めるときの、その枠組み、方向性、社会でテーマとなっている領域。
この社会でテーマとなる領域の枠組みを、どうとらえるかということでしょうか。
最近なら、自分のこと、自分の内面について、自分とはなにか、みたいな自分論です。
その自分論から派生するイメージを、見えるものにしていけるか否かでしょうか。

自分という生身のセクシュアルな側面を、自意識的に、どのようにとらえるか。
自分の性との向かい方、具体的には身体の性のありかた、それを自意識にとらえる。
男女の性の関係、セックスの関係、男と女の交わり、潜在化していた興味の対象です。
それが様々な側面で顕在化してきている、その顕在化のプロセスを表現が担う。
男女の性関係のありかた、表現とすれば、どういう顕在化があるのか、でしょうか。

イメージとしての画像であれば、浮世絵の春画があります、これの復活。
復活する現代版として、紙媒体の出版物、デジタル媒体のネットのなか、があります。
総称として、曖昧ながらアダルト領域のなかに、うんざりするほどありますね。
それらが現代を代表する表現物だというのではありませんが、この方向です。
性を扱う、といえばわかりやすいでしょうか、小説にしろ映像にしろ、です。

表現の彷徨-5-

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美しいモノは美しい、この桜の花は美しい、とぼくは思うのです。
美しいというイメージについて、何を持って美しいとするのか、ですね。
心がふるえる感じを受ける、そんなモノについて、美しい、と表現しようと思う。
ナマな感覚で、生きている感触、いいなぁと憧れる対象物(相手)が美しい。
現代の表現、その中心となる領域は、この「美しい」が主流ではないかと思うのです。

理や知ではなくて、たしかに「我思う故に我あり」論もいいけれど、この時代は終わりました。
いや、文学や美術や映像の表現としてのことで、理や知を否定するものでは全くなしです。
表現されるモノと作者である自分との関係、距離感というか、位置関係のことです。
ぼくの内容がまったく正しいなんて思っていませんが、ぼくはぼくの正解なのです。
プライベートな、肉体と精神、この関係からくる文章であったり画像であったり、です。
(続く)

ここから-2-

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キャノンのアルバムが昨日で終わりました。
この10年ほど、大量にアルバムに写真をアップしておりました。
昨年のジオシティーズと同様、時代の流れで、それはそれで容認します。
インスタグラムがパソコンで表示できなくなったので昨日で終えました。
ニコンのアルバムはまえに新しくなったので、現在はまだ健在です。
手元の資料も処分したから、ひとつの時代を終えて、次の時代にいきます。

フェースブックは続けます、ツイッターも続けます。
昨年末から今年にかけて、新しく開設したところですから。
作品のストックは、ライブドアのブログを中心にしていこうと思っています。
ここ、seesaaブログは三つ開設しておりますが、ここでは論を中心にします。
あとは雑記と京都表現学校のインフォーメーションブログです。
なんやかや、嘘はつかない、まじめに戯言を綴っていこうと思っています。

1946年生まれで、今年で74歳になるから、ちょっと複雑な心境です。
文章書きがいつまで続けられるのか、それがわからないから困るのです。
まだ5年ぐらいはいけるかなぁ、と思ったりしていますが、もっと短命かも。
キリがいい2020年にして、ここから、あたらしい何かを作り出していきたい。
何があたらしいのか、それを判断するのは、自分の感性です。
これからも、よろしくお導きのほど、お願いいたします。

ここから-1-

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桜の季節となった2020年の三月です。
コロナウイルスの蔓延で、世界中が異変を起こしていますね。
大きな戦争が終わって75年でしょうか、小さな戦争は続いていますが。
コロナウイルス、世界がまるで戦争に突入したかのような騒ぎです。
人類対ウイルスの戦い、まるで宇宙戦争のようじゃありませんか。

でも考えようによっては、ここから新しい世界の関係が派生してこないか。
富が集中して、これは国家とかを越えて、グローバル化する世の中です。
これの失速が始まっているのではないか、とイメージします。
ここからが出発点です。
さて、ここでも新しいシリーズで、ここから、なにが飛び出すか、書いていきます。

もう手元には参考文献とか参考資料とかないから、好き勝手に書いていきます。
アホの戯言、とでも言いましょうか、人生七十数年生きてきた地点からの戯言です。
ギャラリー176とその周辺の場所に、手元の資料を送りました。
手元に資料をが残っていないから、それらを参考にして書くことはできません。
思うことを参考文献なしに、記憶の中を紡ぎだして、戯言を書いていく次第です。

これから-11-

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だいぶん身の回りの整理が進んだとおもっていますが、まだまだ残滓がこびりついています。
裸の聖徳太子像ではないですが、衣装を脱ぎ捨ててしまって、そこから何が産まれるか。
これも妄想のうちになるんだと思いますが、天から授かった宇宙観というところか。
いまは、ベートーベンのピアノソナタ、晩年頃の音を聴いていますが、すごい。
音は抽象だから、それの連なりで人の心を揺さぶりますね、としたら文字はどうなのか。
文字の連なりは理解を伴わなければならないから、音の羅列とは、ちょっとちがうなぁ。

あえて分けるとしたら、官能小説ってジャンルがあるじゃないですか。
これは読ませて、性的に興奮させて、理想はエクスタシーに至らしめること。
オーガズムといえばいいのか、アクメといえばいいのか、至福の領域へ導く。
このような言葉の連なりを創造したいと思うのですが、どうしたら実現するのか。
現代未来文学の課題ではなかろうかと思うところで、リアルロマン小説のことです。
昔、温泉場で頒布されていたガリ版刷りの物語、これの再来を求めています。

1955年に書かれたというサンドラール「世界の果てまで連れてって」生田耕作訳。
気になりながら、手元にあるのに、読んでいなかった、これは小説なのでしょうか。
ほかすまえに読んでみようかと、いま手元にとりだしています。
なんともはや、禁断のエロスの華が・・・・と帯には書かれている書ですが。
それとかって読んだ「湖の伝説-画家・三橋節子の愛と死-」これも再読ですかね。
捨てるとなって愛着がわいてくる本のタイトルです。