写真のはなし-3-

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写真とは言っても、写真を学ぶ器のはなしです。
写真学校という枠組みあって、そこで、写真を撮る、写真を処理する、などを学びます。
でも、ぼくなんか、写真学校へは行ってなくて、カメラクラブで修業した部類です。
今は、枠組みはどうでもよくて、学びの場所をどこにするのかが問題だと思う。
新しいグループを作ろうと思って、只今、呼びかけているところです。
関西の歴史的背景に、カメラクラブの存在があって、そこで修練したわけです。
そういう意志を持ったカメラクラブを、再生させて、個人の自立を求めようと思う。
フォトハウスの企画、それの最新版、写真のワークショップを開催ですが。
名称が、写真研究会、としているところで、写真の写真から遠い所で行います。
といいながら、いま、なぜ、行おうとしているのか、ということに答えないといけないな。
自分の欲求、自分の立ち位置、立っている場所、拠って立つ拠点、いろいろ。
自分のことを見極めていくために、他の人と交わりたい、このように思うのです。
世の中にさまざまあるシステムに反撃していく拠点を作り出したい、なんて。
かってあった運動論に論拠を置いても始まらないから、今の論拠を創りたい。
学びの場は、経済活動からいったん切り離して、学ぶことの純粋性を追求したい。
芸術あるいはアートすることは、経済活動とリンクすることではない。
理念的には、商品性からいったん切り離して、芸術あるいはアートを捉える。
これは人間の在り方、基本的存在を、世界システムの何処に置くかということ。
使用した写真は、1980年代初めに撮った白虎社の舞台写真です。

写真のはなし-2-

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天岩戸神社の本殿というのがこの写真に写った祠です。
この説明がなかったら、この写真を見て、人は何を思うでしょうかね。
写真は目に見えるモノが平面にあらわされた人工のものです。
目に見える実物をコピーしていてそれはそれだとわかるのですが。
これが天岩戸神社だということはそういう説明がなされてわかる。
言葉に支えられているイメージだから、言葉がなければただの風景です。
やっぱり言葉の積み重ねで意味を構成しているから言葉がないと意味がない。
そもそもこの「言葉がないと意味がない」という文脈から写真を外すとどうなるか。
わけがわからない、先に得ている情報で、これは祠、神の祠、これくらいはわかるか。
でも、これだけでは意味をなさないから、言葉で様々な意味をつけていく。
でもなぁ、写真って、こういうもんではないんじゃないか、と思う。
ここから、写真というモノをとらえていくことを考える必要があるのではないか。
写真に撮られたモノの価値によって語られる写真ではなくて、写真自体が価値となる。
そういう写真とは、いったいどのような写真だと、言い当てればいいのでしょうか。

写真のはなし-1-

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あんまり難しく考えると文章が書けないからここが更新できない。
だからブログタイトルも「写真のはなし」と改名して、ざっくばらんに書いてみます。
写真と言ってるけど、写真ばかりに興味があるわけではなく、写真の奥に興味がある。
写真の奥って、写真に撮ってあげる被写体の意味するもの、これを撮る、ということ。
写真だけじゃなくて、絵画とかも含めて、平面イメージ表現といえばいいのでしょうか。
目に見て思う平面、写真や絵画、このイメージ物とその描かれている物を見て思うこと。
よくわからない、なんでそれなのか、なんで相手がそれを示してきているのか。
ぼくは示すほうでもあるので、示すそのなかみが、何なのか、ということを考えます。
写ったり、描いたりすることではなくて、その相手、写るもの、描くもの、それと自分。
なんだか、わけがわからなくなってくるから、言葉が紡げなくなってしまうのでしょうね。
こういう性格といえばそうなのかもしれないけれど、納得しようと思うわけです。
ところが納得しようがないところへ行ってしまって、悩んじゃうんですね。
でも、好きなお方が、撮った写真や描かれた絵は、それだけで自分のものにしたい。
手に入れたい、抱きしめたい、そのような感覚になってしまいます。
ということは恋の代償物として、そこから恋の相手の心を探る、そういうことだろうか。
わからないけど、共有したいと思う、その対象が写真に撮られた物、そのものでしょうか。



写真論-1-

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写真論と題して、何を語ろうかとおもうところですが、最近、語るのが虚しい気持ちです。
その理由はわかりませんが、言葉で言い表すことじたい、その内容が信じられない。
じゃあ、静止画の写真イメージなら、信じられるのかといえばそうでもない。
信じる信じないの問題ではなくて、感じるか感じないかということが問題ではないか。
感じるとは、感覚的なとこで、まったく論理的じゃない。
この論理的でないことを論理的に組み立てようとするから無理があるのだ。
そのように思い出して、ついにここに言ってしまったわけです。
そうするとこれ以上、論理というものを、抱いていても進まない。
なら、その論理なるものを排除して、思うままに進めればいいのかも。
そんなこんなで、ここがすすめられなかったと思うんです。
また、しばらく、休止させるかも知れないです。

posted by shigeo at 16:53Comment(0)写真論

写真とは何か-2-

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<論-1->
写真について論を立てようと思って、この枠組みを作ったところですが、なにをどのように、という回路が組み立てられなくて、しばらく放置したままでした。なるべくやさしく、わかりやすいように書こうと思っているところですが、やっぱり難しい感じがします。というのも、技術的側面を現状に合わせてなぞっていく内容だと、それはそれなりにわかりやすく論じられるように思えます。でも、ここで論を立てようと思うところは、写真とは何か。これはやっぱり漠然としていて、どこからつついていけばいいのか、入り口をどこにするのか、などなど思うところが多いから書きだしてこれなかったと思っています。

たわ言、戯れ言、独りよがり論、そのようになっていく可能性があるのは、論拠の底辺を揺らめかせて書こうと思うからかもしれません。予定調和的に、こうあるべきだから、このように書いて、思うような枠組みを作っていく。論というのはおおむねこのような枠組みだと思っていますが、あえて、その枠組み崩しができないかと思っているわけです。写真って、カメラが必要じゃないですか。としたら、カメラを使わなかったら写真という代物が成立しないのか、というようなことを論立てていけたらいいな、と思うわけです。これは無謀な試みというより、論にならないのかも知れません。

でも、やっぱり、写真の定義からやっていかないといけないようなので、写真というモノの有る姿としての枠組みを作っていきます。写真は、おおむねカメラ装置を使って制作するモノです。カメラとはカメラオブスクラ、カメラルシダ、ロランバルトには後者のカメラルシダですかね、明るい部屋と訳された論書があります。この論を書く背後には、ちらちらとその論書のことを意識してしまいます。どうして、ロランバルトの写真論が気になるのかといえば、ぼくは影響を受けていると思うからです。文献を見ないで書いているのでおぼろげですが、それは1980年頃に書かれた論だと思うんです。それから写真をとりまく環境が大きく変わっていると認定します。フィルムからデジタルに移行しているし、カメラはスマートフォーンに内在されていて、そこまで含めるなら、カメラを扱う人の数がめちゃくちゃ多くなっているのが現状でしょう。

写真とは何か-1-

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はじめに
これまでにも幾度か<写真とは何か>と問いかけ、論を重ねてきたところです。にもかかわらず、明確な答えが出せないまま、おぼろげに写真というものの、その外形が語られたかと思うところです。あらためて、ここに写真とは何かという枠組みで、論を形成していこうと思うところです。写真というものの定義からはじめて、さまざまな側面から論じていく、という流れになろうかと思います。制作技術的な側面、カメラ機材の側面、それから撮られる内容について、つまりは写真を撮る行為の核心を明らかにしていきたいと思うのです。

写真そのものの歴史は、年月的には、写真の発明とされた1839年から180年ほどが過ぎたところです。ところが、その後、写真というものの内容を論じようとすると、その前史としての絵画史を紐解かなくてはならないだろうし、絵画史を紐解くためには、文学や哲学の領域を念頭におかなくてはならないだろう。そのように枠をひろげていくと、際限なく写真という目に見える形としての像を定着させたモノを、どのように捉えればよういのかという考察の対象に向かっていくように思えます。なので、どこで区切るかということが、その時々に生じてきます。

論を完全な形でまとめられるはずもなく、いくつかの論を、群としてまとめる。そのまとめを作り出すことで、その総体が浮かび上がってくるのではないか。この予測は、まったく一般論でしかないのだけれど、そこに準拠して、入り口をマトリクス化し、その個々から内部へ入っていくことになるのではないか。また、ここに描かれる個々の論がマトリクス化され、立体化され、見えなかった処が見えだして、全体が新しい見方につながっていくこと。ここから書き進められる<写真への覚書>と題した文章が、写真という表現の方法を、共存する社会のなかで意味づけるものでありたいと思うところです。