2018年04月20日

表現の彷徨-1-

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 表現という範疇で、芸術表現を取り上げてみますが、そもそもの表現とは何か、そうして芸術表現とは何か、という定義というか意味づけにまで降りた話をしておかないと、芸術表現というイメージが、個別ばらばらになってしまうのかも知れません。とはいっても、ここでは芸術表現としての画像イメージ、文字イメージ、音声イメージ、見る、読む、聞く、の三つの分野について、その基底を成す描かれる領域について考えようと思うのです。方向としては、社会制度のなかの性的表現について、ということになろうかと考えます。政治的表現であれ、個人的表現であれ、表現を表現として受け入れる社会システムがあって、これは時代によって枠組みが変容するから、その変容によって表現の範囲が決められてきます。この表現の範囲とは、社会制度を崩壊させない思考の範囲ということになります。

 表現の自由ということが、様々に語られています。自由とはなんでも好きなことができる、というのが基本イメージですが、このとき表現の自由とはいっても、この自由は制度を崩さない限りということです。制度を崩すとは、極端にいえば体制を崩す、ということであり、体制を崩すべく方向を示す表現物の表出、ということになるかと思います。真の表現者とは、なんて、今の時代になんのこっちゃ、と言われそう、真とか偽とか、そんな区分なんてありえない、真とか偽とか、なにを基準にそんなことを言うのか、ということ。まあ、二者択一ではなくて、真から偽までのシームレスな枠組みと考えればいいかと思うし、真とは何、偽とは何、と話を拡大していかないといけないし。まあ、結論的にいえば、真の表現者とは、体制を変容させる要素を持った表現物を提示できる者、ということでしょうか。ここでは、かなり曖昧に、概念として、真の表現者像をイメージしております。

 表現の領域についていえば、性的表現というイメージで語られる領域があります。根本には、人間の、ヒトとしての本能に由来する領域だと思えるから、表現史を紐解けば、その原点には性的表現の情を含んでいるのではないですか。表現の対象を、対人関係において描かれる時、そこには男と女という関係が描かれてきます。日本文学でいえば、源氏物語は、男と女の恋物語といえばいいですね。言葉で書かれ、絵として描かれてきます。一気に江戸時代にきて、浮世絵の春画なんて、文字と絵ですが、リアルな絵、リアルとはいっても筆と絵の具が原版で、そこから版がつくられ版画になるプロセスです。この描かれるものが、男と女の出来事、という成人であれば情が動かされる対象になります。言葉でこうしてここに書くより、イメージを提示すれば、それで全てがわかる、とでもいえそうなことなのですが、ここに展示するには憚られることです。
(続く)
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2018年04月15日

滅びの文学

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 突飛な話だけれど、ぼくの手元に「滅びの文学」と題された単行本がある。もう何十年も前のことだと思って中を見ると1996年10月の葉書が出てきた。いま2018年だから22年前ということになる。ぼくは72才になるから50才の時に送られてきた葉書だ。なぜ、どうして、いま、ぼくが、この本「滅びの文学」を手にしたのか、ということだ。懐かしいと思ったから、というのが第一の理由だ。箱から取り出し、まだビイビイ紙がかぶさったままの上製本のそれを開くと、生田耕作さんが亡くなられて三回忌記念の「生田耕作著作展」を企画した<アスタルテ書房>からの葉書だ。この書籍と生田耕作コレクションを購入した記憶が、甦ってきた。

 「滅びの文学」副題に「バタイユとセリーヌ」つまり生田さんのバタイユ論とセリーヌ論をまとめた一巻なのだ。ぱらぱらと読みだしたが、30分もしないうちに、ぼくは本を閉じてしまった。シュルリアリズムの領域を愛好していたその頃、書籍は買ったものの積読に過ぎなかった記憶を蘇らせ、読めるモノなら読んでみようと思ったわけだ。ぼくは混濁して、もう時間がないのだ、と思わざるを得なくて、まだ捨てずに残してあるそれらの書籍を、今しばらく眺めてみようと思うのだ。内容は、「滅び」、滅びだというが実は滅びていくのではなく、生成し、興隆していく、これからの文学形式、あるいは領域、その内容なのだと、ぼくは確信するのだ。

 ときあたかも、明日、「京都極彩秘宝館」展の搬入日である。この展覧会の展示物は主に静止画・写真作品である。およそ20人の作者が、写真を展示する、書籍を展示する、という展覧会であって、ぼくは、この展覧会の企画をロマンリアリズムと括っているのだ。シュールリアリズムからおよそ一世紀を経て、滅びの文学は滅びるのではなく、漸くその社会的認知の時代が来たのだ、と思うのだ。バタイユであれ、セリーヌであれ、アンドレ・ブルトンであれ、大戦の狭間において人間を回復させようとした善意が、悪として正規の社会システムから封印されてしまった。この封印が、今、解かれようとしているのだ。ぼくもペンネームで参加するが、今やすでに、研究すべく時間がない。(続く)2018.4.15。
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2018年04月13日

フォトハウス表現塾の話-4-

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フォトハウス表現塾のHP

フォトハウス表現塾では、写真の制作、表現の方法などを学ぶカリキュラムを用意しています。
只今、カリキュラムに基づいたレッスンの受講を希望される方を募集しています。
また、ともに活動できるスタッフ・メンバーを募っています。

この4月21日(土)の午後2時から、第1回「カフェ&プレス」を開催します。
場所はアマノコーヒーロースターズのお店のテーブルです。
受講をお考えの方、写真やアートに興味おありの方、参加しませんか。
経費は500円(コーヒー代+)です。

問い合わせは<AMANO COFFEE ROASTERS>へ
<アマノコーヒーロースターズ>
〒603-8203 京都市北区紫竹東高縄町23-2ルピナス1F
Tel&Fax (075)491-6776 です。
https://www.facebook.com/good.coffee.kyoto
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2018年04月06日

太宰治のこと

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中川繁夫のホームページ
 ぼくの人生、生きていくうえで影響を受けた小説家といえば、堀辰雄、高橋和巳、柴田翔、もっと細かくいえば漱石や鴎外、犀星や藤村、でもね、言いたくても大手を振っていえない気持ちになる太宰治をあげなくてはならないと思う。読み込んだというか、太宰フアンはたくさんいらっしゃるから、ぼくなんかはその端くれにも位置しないかも知れませんが、ひところ、太宰抜きには考えられなかった日々がありましたのよ。御年19才から21才くらいでだったでしょうか。「斜陽」もさることながら、「人間失格」を読んだ後の夢は、悪夢というか、奈落の底へ落されたような気持になりました。いいえ、こんな体験はぼくだけじゃなくて、太宰に魅了されるお方は、今もってたぶん、同じだろうと思われます。最近で太宰の話題を出した場面は、もう二年半も前になりますが、たまたま文学の話で、太宰を出して、その人も太宰を読んだと言いました、読んだけれど、友達がショックを受けたほどには、それほど感じなかったという小悪魔的なその人でした。

 ともあれ、太宰治を最初に読んだのは、まだ音楽家になろうとしていた頃で、勤め人一年生、十字屋にいたころだったと記憶しています。二十歳になった年の成人式の日、ぼくは音楽の仕事を辞めていて、文学に興味を持ちだしていて、でも浪人となっていて、不安定な身の上、いまいる彼女とつき合っていて、恋心は満ちていたけれど、人生への落ち込みは、それだけでは癒されなくて、太宰を読んで呑み込んで、慰められた気がします。死にたい死にたい死にたいという太宰治。でも、東京大学に入学してる、津軽地方の名士の家系で、経済的には何不自由ないヒトじゃないですか。まったく、ぼくの素性とは異質な、対極にあるようなヒトが、ぼくの心を支えてくるとは、なになんだろう。生きるということの基本の源泉が、感情として同化していったのだろうか、いまは高齢になっているぼくには、青年期の研ぎ澄まされた鋭さはありませんが、思い出すと、とおいとおい向こうに、地を這っている自分を見てしまいます。太宰は、心の支えだった、とだれもが言う言葉を、ぼくも同じように使わせてもらいたいと思います。

 その後、小説家をめざすぼくは、太宰のことを誰にも話すこともなく、しかし、この歳になっても太宰のような文章を書きたいという欲求があります。筑摩書房から太宰治全集が発刊されて、それを買って、今も手元にありますが、全部読んだとは言いませんが、ほぼ読みました。何度も読んだのもあるし、一回だけのもあるし、思い出せば「虚構の彷徨」なんて小説があったと思うけど、題に惚れて、何度も読んだ、心中して女だけが死んで自分が生きている、という話があったように思います。同時期に読んだのが高橋和巳でしたが、読みやすさでいえば太宰治。いまもって、太宰を意識しながら文体を作ったり、文章を書いたり、スピード早く書いて、その速さで、読者の心を揺すれないかと思うのです。アダルト分野でいえばロマンリアリズムを提唱しているところですが、文章を読ますことでエクスタシーに導けないか、と思うわけです。究極の小説、読ませてエクスタシーにのぼらせられる小説、ということですが。それって、ぼくの理想です。

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2018年04月04日

文学のはなし-2-

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 文学といっても幅が広くて、奥行きが深くて、主題を絞っていくのに困ってしまいますが、ここではイメージをイメージのままにするのか、イメージを言語に置き換えて、文章という奴に組み替えるのか、このあたりのことを扱いたいと思っています。

 小説はフィクションで、作り話ということだけど、作り話の元となる事象は、実際にあったことというか作者の体験をイメージにして、それは映像にして、と言えるとおもうのだけど、その映像を言語に置き換えていく作業だと思います。いくつもの出来事を組み立てて、物語にして、現実に起こったこととは位相がちがう仮想現実にしてしまうわけです。

 書いていいこと、書いてわるいこと、良否という判断を、どこかでしなければなりません。線引きといえばいいのか、どこで線を引くか、ということ。プライバシーとパブリック、それの境目をどこにするのか、とか、性を扱う表記の仕方、世間ではアダルトとか18禁とかの言い方で一線を引くその境目、境界線をどこで引くかということ。

 文章を書くという行為のなかに、そういった様々な枠組みを決めていかなければ、型にならない。扱う現場をどうするか、表すイメージの現場を、どう描くのか、諸々のことです。アダルト、という枠が設けてあり、その枠を示せば、かなりのことが表記できるように思えます。文章表示による性描写など、かなりできる、思うことのすべてができる、とはいはないけれど、かなりの表現ができるのではないか。ここは、アダルトではないから、自粛して、性にまつわる描写は避けなければならない、と自主規制をおこないます。

 文学の枠が、曖昧になってきて、流動化していて、どう組み立てたら「現代」なのか。現代表現研究所を表記して、現代の表現を研究する所、と解釈していきますが、その枠のヘッジをどのようにして策定し、乗り越えるのか、といえば過激になり、その枠の内において、といえば許されるが面白くなくて、ヘッジをヘッジとして、そのヘッジに添って文章を書けばいいのか、と思うところです。それができるかどうか。イメージ、絵とか写真とか映像、ならこの体制の枠で、どこまで許されているのかというヘッジを想定して、それに沿うか沿わないか、そのことですね。では、また、考えましょう。
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2018年04月01日

自己表現の道具-3-

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 自分を表現するということは、自分の欲求を満足させるために行う外的な行為だと思うんです。このことでいえば、生活するレベルで、お腹が空いた、あれが欲しい、これが欲しい、という日常の生活を潤していく欲求を満たすことになります。そこそこ、この欲求が満たされる環境になれば、自己実現する方へ向かうと思っています。対象となる相手に対して、自分を認めさせる、認めてもらう、という行為でしょうか。この相手との関係を捉えることが、変遷してきていると思うんです。端的に、今はどのような時代かといえば、ぼくは、個人の内面が、個人と対面している相手の内面と、その価値観というか気持ちを共有する時代だと思うんです。

 かって権力関係なんていうとらえ方で、上下関係とか、大きな全体と小さな個人の関係とか、そのような関係のなかで自己表現が試みられたかと思います。基本的には政治とか経済とか、社会を動かす枠組みに、その一つとなってあることは個人として認められることだったのではないかと。でも、いま、そういう関係を外しても成立するように思想できる時代になったと思うんです。社会の変化、人間のとらえ方の変化、個人のあり方の変化、といえばいいと思います。脱権力、水平関係、あなたとわたし、このプライベートな関係を求めてもいい時代になっていると思います。これは主体としてのこちら側の立場で、ここから表現するというのです。自分を発信するというのです。自分の内面を発信して、客体としての相手の内面に受信してもらう、この関係です。

 個人の内面を、個人が見つめ、考察する、ということが現在のテーマだと思うし、その方法が作品を生み出すベースになるのではないかと思うわけです。あなたとわたしの間で、なにを根拠にして共有しあえるのか、それを情のレベルで感じあうということ。確認の使しようがないんですが、確認の抱負は言葉、それに類する記号、それを合図として交換することか、とも思われます。そうなんですよね、表現すること、そこに社会性を求めた時代から、かってある社会性を求めなくてもよい関係のなかで、なされる情の交換、これですね。情とは、感情、情感、個体の内部に生成してくる感覚とでも解釈しておきましょうか。時代とともに解釈が変わるかと思いますが、その解釈を提起できるかどうか、表現のありかた、です。
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